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Bend Down Lowに関するあれこれ(パート1)

リメイク曲

この曲Bend Down Low はアルバムNatty Dreadの中では唯一のリメイクです。

オリジナルは1967年にシングル盤A面曲としてリリースされたこれです。リズムはまだレゲエではなくロックステディ(Rocksteady)でした。

このシングルのリリースは、ボブにとって大きな一歩でした。

独立レーベルWail’n Soul’m

ビジネス面で問題を抱えていた人気コーラストリオWailersのために、自力で立ち上げたレコードレーベルWail’n Soul’mの初回リリース作品だったからです。

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以前にも書きましたが、1960年代ジャマイカの音楽業界は大手レコード会社によって完全に支配されていて、ミュージシャンの権利は著しく制限されていました。

ボブたちは曲を録音してもわずかしか報酬を得ることができず、さらにリリースされた曲がどれだけヒットしても印税を受け取ることができないという劣悪な条件下での活動を強いられていました。

どうしても独立レーベルを作って正当な報酬を手にする必要があったわけです。

移民ビザでアメリカへ

そこでボブは資金を稼ぐため、1966年にアメリカに渡っています。

・・・というのがボブの伝記(ものすごくたくさんあります)の著者がこれまで採用してきたストーリーなんですが、真実はまったく違うようです。

ボブのアメリカからの任意出国に関して米国移民局が作成して保管している資料が2021年8月にウェブ上で公開されています。

この資料を詳しく紹介している記事によると、1966年2月にnonquota immigrantという資格でボブはマイアミ経由でフィラデルフィアからアメリカに入国しています。

Nonquota immigrantというのは米移民法による受け入れ枠に左右されない国からの移民という意味です。

この時、ボブは「永住外国人の未婚の子供」という資格でいわゆる「移民ビザ」を取得してからアメリカに渡っています。

ボブが取得していた「移民ビザ」

キングストンのアメリカ大使館で彼が移民ビザを取得したのは渡米約2年前の1964年3月です。

証拠はありませんが、1962年暮れにデラウエア州ウイルミントンに移住した母セデラがgreen cardを取得して彼女の滞在資格が「永住者」に切り替わったタイミングなんじゃないかなと思います。

幻の移住計画

ボブ本人の意向はナゾです。でもセデラがボブを合衆国に呼び寄せたいと思ってボブに移民ビザを取らせたのは間違いないと思います。

ボブ&セデラ in ウイルミントン

もう少し関連事実を書きます。

米移民局公開資料によると、ボブは1966年2月17日にアメリカに入国しています。

そのちょうど1週間前、2月10日にボブはキングストンでリタと結婚しています。

そしてボブのアメリカ入国から4か月後の6月28日にリタはボブの妻としてキングストンのアメリカ大使館に「移民ビザ」の申請をしています。

ちなみにリタのビザ申請はボブが「永住者でない」という理由で却下されています。

この経緯が物語っているのは、ボブは移住するためにアメリカに渡り、愛するリタと一緒に合衆国で生活するため、大急ぎで結婚届を出して彼女にも移民ビザを与えようとしたということだと思います。

キングストンの貧しいゲットー暮らしから脱出して合衆国に移住してそこでアメリカンドリームを追いかけたかったんでしょうね。

今も昔も貧しい国の人間にとってアメリカ入国は簡単じゃないし、正規の滞在資格を得るのは入国の何倍も難しいです。

先に移住に成功していた母親のおかげで彼には「家族としてアメリカに入国して滞在する」という特別なチャンスがありました。

レーベル立ち上げに必要な資金稼ぎじゃなく、最初はアメリカ移住が渡米目的だったわけです。

これまでまったく知られていなかった事実の説明で長くなってしまったんで、今回は2部構成にします。この続きは「パート2」で~

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