Guiltinessに関するあれこれ
ひとつ前のSo Much Things to Say、この曲Guiltiness、次のThe Heathenはいずれも「やつら」について歌ったナンバーです。三部作と言えます。
So Much Things to Sayでは「やつら」は邪悪な霊でした。「やつら」は人間を幸せにする生き方=真理を覆い隠して見えなくしようとしていました。
より具体的な「やつら」
Guiltinessでボブはより具体的に「やつら」について語っています。
ここでの「やつら」は弱者を虐げる者(Downpressors)です。
「やつら」は自分たちより小さくて弱い者を食い物にしようといつも狙っています。
敵ではなく哀れむべき存在
でも同時に「やつら」は「後ろめたさ」=締め付けられる良心を持っています。正しくないことをやっているという自覚、つまり良心の呵責があるからです。
邪悪な霊にそそのかされ、神の教えに背いて間違ったことをしている「やつら」は哀しい存在です。
ボブは後ろめたさを感じている「やつら」を敵視してはいません。将来悲しみを味わう者と呼んで哀れんでいます。
この曲にはI and I(我々)が出てきません。そこがSo Much Things to Sayとは違う点です。
自分を映す鏡
ここからは訳者<ないんまいる>の個人的解釈ですが、ボブは意図的に「やつら」対「我々」という図式を避けたんだと思います。
「やつら」は自分たちとかけ離れた人間ではなく、鏡のような存在なのです。
人は誰しも心の中に弱さを抱えています。So Much Things to Sayに登場する邪悪な霊はそこを利用して人の心を支配しようと狙っていました。
虐げる「やつら」も生まれついての悪人ではありません。良心を持たないと、自分たちも「やつら」と同じようになってしまう危険があるんだ。歌詞の中で語ってはいませんが、そんなメッセージをボブはこのナンバーで伝えている気がします。
悪=誤りを正せないこと
日本では知られていませんが、ボブが活動していた時代のジャマイカのラスタはほとんど全員が元キリスト教徒でした。
キリスト教的価値観を持つラスタにとって、誤りを犯すことは「悪」ではありません。彼らにとっての「悪」とは誤りを改めないことです。
正しく生きるためには、何が正しいか知り、誤りに気づく必要があります。何が正しいか知らない人は自分の誤りに気づくことができません。
ラスタは感覚(feelings)を重視する人たちですが、同時にこうした理路整然とした考え方(logics)も持っています。
小さな魚とは?
虐げられる者の象徴として「魚」が出てくるのにも意味があります。
ローマ帝国為政者による厳しい迫害の下で信仰を守り続けた初期のキリスト教徒は厳しい弾圧を逃れ、カタコンベ(catacombs)と呼ばれる地下墓地に集って礼拝を続けました。
彼らは集合場所やお互いの信仰を表わすシンボルとして「魚のマーク」を使いました。
このマークはイクトゥス(ichthys)と呼ばれています。
異端視され、様々な形で迫害を受けていたラスタが初期のキリスト教徒にそっくりだと感じたボブは「小さい魚」としてラスタを比喩的に曲に登場させた訳です。
直接聖書から文章やフレーズを引用していない箇所でも、ボブはキリスト教や聖書を知る人なら理解できる記号や隠喩を用いています。
聖書にもキリスト教にも馴染みがないこの国の99%のボブ・マーリー・ファンが気づかずに見逃しているポイントはかなり多いです。
もうお分かりになった方も多いと思いますが、訳者<ないんまいる>はクリスチャン(プロテスタント)です。
勉強不足で知らないこともまだまだ多いですが、分かる範囲でボブが歌詞に埋め込んだ「暗号」を解読し、紹介していければと考えています。