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Johnny Wasに関するあれこれ1(背景としての政治的暴力)


この曲の背景には二大政党によるギャングやスラムの住人を巻き込んだ激しい暴力的な抗争があります。

歴史

ジャマイカではサトウキビ農園で頻発していたストライキが発端となって1938年に最初の労働組合が誕生しました。

この最初の労働組合が母体となって1943年に生まれたのがJamaica Labour Party (JLP)です。

少し早く1938年にPeople's National Party (PNP)も誕生しています。

この当時からJLPとPNPはライバルでした。

PNP支持派(左)、JLP支持者(右) 

1962年のジャマイカ独立の時点でキングストン市内ではすでに両党支持者による激しい地域対立が生まれていたと言われています。

支配の構図

ジャマイカでは総選挙の度にJLPとPNPが激突します。その際garrison communities(要塞地区)と呼ばれる支持政党が異なる都市区域も敵対して、票をめぐって血みどろの争いを繰り広げます。

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ギャングと裏で手を結んだ二大政党は公共事業や住居といった恩恵の配分を通じてこうした要塞地区を支配しています。支配を維持するため、ギャングは容赦なく銃と暴力で住人を脅しています。

勢力圏

首都キングストンの場合、トレンチタウンの南東にある地区Tivoli Gardensが完全にJNPの支配下にあるエリアです。

一方、トレンチタウン北側のArnett GardensはPNPが支配する地区として知られています。

トレンチタウンはArnett Gardensに隣接する北側がPNP、7th Streetから南をJNPが支配する政治的にすごく不安定なエリアでした。

ボーダーラインだった7th Street周辺は総選挙が近づく度に火薬庫に火がついた状態となり、数多くの犠牲者を出していました。

76年当時の状況

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ボブがJohnny Wasを書いた1976年の総選挙の前もまさしくそんな状況でした。

ある資料によると、1976年の最初の5か月だけでゲットーの住人100人近くが銃による暴力で命を落としたそうです。

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この年の6月、当時のジャマイカ首相マイケル・マンリー(Michael Manley)は非常事態を宣言しています。

そんな政治的暴力の季節が始まった頃、1975年の8月から9月にかけて書かれたこの曲にはモデルがいたと言われています。

実在のモデル

トレンチタウンの住人で自警団のメンバーだったTrevor Bat Man Wilsonがその人です。

人気シンガーDelroy Wilsonの弟で、本人も歌手として活動していたようです。 

ネット上にほとんど情報がないのでTrevorに関してはこのぐらいしかわかりません。

ただ、おそらくこの曲を歌っているのが彼だと思われます。

Trevorはエスカレートしたギャング間の抗争をストップするべく双方に武装解除を呼びかけ、その結果殺されたと言われています。死亡時期は不明です。

おそらく古くからの友人だったボブがTrevorを悼んで作ったのがこの曲Johnny Wasなんだと思います。

Trevorは映画Harder They Comeで使われて大ヒットとなったThe SlickersJohnny Too Bad(1970年録音)の作者だとも言われています。

Johnnyは悪くなかった

これは訳者<ないんまいる>の個人的見解ですが、Trevor の訃報を知ってJohnny Too Badがぱっと頭に浮かんだボブがJohnnyという名を借りてTrevorのことを歌ったんだと思います。

Johnny Too Bad にひっかけて、ボブはJohnny was a good man (ジョニーはいいヤツだった)というリフレインで正しいことをやろうとして死んだTrevorを追悼している。そんな気がします。

ちなみにボブがJohnny Wasを発表した翌1977年にはオリジナルウエイラーズのBunny WailerもJohnny Too Badをカバーしています。

たぶんBunnyもトレンチタウンの隣人としてTrevorをよく知ってたんでしょう。曲のラストで「デカくて悪いジョニーは善いこころも持っていたんだ」とわざわざ歌詞を加えて歌っています。

残念ながらTrevorとJohnnyに関してこれ以上のことはわかりませんでした。

追記

最後に事実関係を簡単にまとめておきます。

血みどろの選挙戦の結果、1976年の総選挙ではPNPが勝ちました。

PNPは国会の議席の過半数を確保し、党首マンリーは首相として再選され、社会民主主義者だった彼の政権が続きました。

敗れたJLPは党首エドワード・シアガ(Edward Seaga)と共に4年後の総選挙で再びPNPに挑み、今度は勝利して政権交代を実現しています。

両党の支持者による政治的暴力が一段と激化した1980年の総選挙の際には約800人が犠牲になったと言われています。

フィデル・カストロと親しかったマンリーのバックには社会主義国キューバが、ロナルド・レーガンと親交を結んでいたシアガの後ろにはCIAがいると噂されていたはるか昔、東西冷戦時代の話です。

ご存知の方も多いと思いますが、ボブは公の場では中立の立場をとっていました。でも彼は知る人ぞ知るPNP支持者でした。

そしてこの年1976年の12月に何者かに自宅で狙撃され、危うく殺されかけました。

そのあたりの事情に関しては、後日「Rat Raceに関するあれこれ」で詳しく書きたいと思います。

この曲のカギとなるもうひとつの構成要素、聖書に関しては別コラムに書くことにします。そちらもぜびご一読ください。

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