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海はウチを少し大人にしてくれた。


 子どもの頃、海は綺麗なものとばかり思っていた。テレビや雑誌で取り上げられる海は、どこも透き通ったコバルトブルーに輝いていたから。静かな海の中をカラフルな魚が優雅に泳ぎ、まるで宇宙旅行でもしているように、人は海の惑星を漂う。そんなイメージを抱いていた。


 チビだったウチは、親に「海に行きたい!」とせがんだ。親は「沖縄は遠いよ」と呆れたような顔をしていた。そう、ウチが行きたい海は、沖縄の海だった。


 そこが遠いことは子どもながらに理解していた。それでも、ウチは海に行きたかった。都会で育ち、コンクリートに囲まれた反動とでもいうのだろうか。無性に大自然の中に飛び込みたくなる衝動があったのだ。


「どこでもいいから! なんでも言うこと聞くから!」


 ウチは涙ながらに叫んでいた。我が家は車ももっておらず、何度も「うちは貧乏なんだからね」と諭され続けたが、どういうわけだか、この時ばかりは譲ることができなかった。そうして、なんとか家族を説得し、電車を何本も乗り継ぎ、たどり着いたのが湘南の海だった。

 桃源郷に行くかのように目を輝かせ、期待に胸を膨らませていたウチは、まず、その人の多さに卒倒するかと思った。巨人のような大きな大人たちが服を脱ぎ、小麦色に染まった肌をテカテカと光らせている。体にドラゴンやタイガーの絵を刻んでいる人も多く、まったく人種の違う異国に足を踏み入れたような錯覚を覚えた。


「ここ、海?」


 ウチの質問に親は大きく頷いた。親は、ウチになにかを期待するかのような目をしていたが、ウチはボケっと手を引かれながら歩いていた。


「ほら! 見えてきたよ!」


 親がそう叫んでから100歩くらい進んだとき、やっとウチの目に海が飛び込んできた。今度は、本気で目眩を起こしそうだった。


 海の色が、すっごく汚かったのだ。いや、実際には汚くなかったと思うが、少なくともウチの目には濁って見えてしまった。


 ドス黒い海に向かって、大勢の人が笑顔を見せている。その光景がウチには受け入れられなかった。でも、いまさら「帰る」なんて口が裂けても言えない。それに親は相変わらず、ウチになにかを期待している視線を刺していた。


「うみだー!」


 期待に応えるかのようにウチは叫び、砂浜を走った。砂は白くなかった。ゴミがたくさん落ちていた。ウチは目を閉じるように海まで走った。そうするより、他に手がなかったのだ。

 でも、くるぶしを海に浸すと微かに喜びが湧いてきた。波がザブザブとウチにちょっかいをかけてくる。遠くから見ると濁っていた海は、近くで見るとちゃんと透き通っていて、水っぽかった。


 ウチは海を楽しんだ。水着も着ていないというのに、パンツまでビショビショになるほど、海を浴びた。嫌がる親に、海水をバシャバシャを蹴り上げた。大きな波がウチの体を飲み込むように戯れてきた。


「想像してた海とは違うけど、海ってたのしいっ!」


 ウチは喜びでいっぱいになっていた。でも、遊び疲れて海から上がると、またもや想像もしていなかった現実がウチを襲ってきた。


 砂ぼこりだ。


 砂浜がホコリっぽいことを初めて知った。海風がベタベタすることも知らなかった。海から上がると、ウチは砂まみれになっていた。あし、て、かお。口の中まで塩辛い砂が入ってくる。ただでさえ潔癖症だったウチは、本当に今すぐ帰りたい気持ちになっていた。


「砂がヤダ・・・」


 気付けば、そうこぼしていた。すると、親の目の色が変わるのがわかった。


「じゃあ、もう二度と海には来ないから」


 烈火の如く親から説教が飛んでくる。海に行きたいと言ったのはアンタだ。これが海なんだ。砂がいっぱいつくし、体はベタベタするし、焼けるし、疲れる。これが海なんだ。そんな海に行きたいと言ったのがアンタなんだ。そんなことを言うなら、二度と来ません。


 大人も疲れるらしい。疲れるとイライラするようだ。ウチはなにかを勉強するような気分で親の話を聞いていた。でも、やっぱり怒られるのは気分が悪い。


 海なんて、来なきゃよかった。


 ウチは心の中でつぶやいた。でも、親にはそんなことは言えない。大人しく「ゴメンナサイ」とロボットみたいに謝った。その後、近くの水道で体を大雑把に洗い流し、気持ち悪さを我慢しながら電車に乗り込んだ。自然乾燥した服からは潮の香りがした。


 あまりにも泥だらけだったのか、親はウチを近所の銭湯に放り込んだ。遊んだ後の銭湯ほど気持ちいいものはない。湯船につかり、壁に書かれた富士の山を眺めながら、ウチは考えた。


 現実はザラザラしてるんだ。

 どうしても純粋に物事を考えてしまうクセがある。混じり気のないものこそが「綺麗」だとか「クリア」だと思ってしまう。でも、現実として、そんなものは少ないのかもしれない。


 海は確かに楽しかった。近くで見れば綺麗だし、波がやってくる感覚に心も踊った。でも、同時に現実としての問題も多かった。やっぱり汚いと思ったし、人も多いし、怖い。気持ち悪くなるほど体中がベタベタになるし、砂まみれになって最悪な気分にもなる。そういえば、魚の気配なんて、1ミリも感じなかった。まったくもって、現実はサメの肌みたいにザラザラしている。


 別に海が悪いわけではない。ウチが知らなかっただけだし、やっぱり海は楽しいところだと思った。今度行くときは、ザラザラを前提に行動すればいい。純粋な思いばかりを膨らませるから、現実に面食らってしまうのだ。


 周りを見渡すと、親の肉体とはまるで異なった老体に囲まれていた。このブヨブヨに垂れた脂肪たちも、たぶん、ザラザラしたものの一部なんだと思う。


「こんにちは!」


 ウチが声をかけるとシワクチャになった老人がニコリと笑った。そのときウチは、祖父母のことを考えた。ここに来てる人は、オムツもしていないし、ウチと親の見分けがつかないなんてこともない。祖父母と違って、みんな、元気な人たちばかりだった。


 やっぱり、現実はザラザラしてる。このザラザラ感を忘れちゃダメなような気がした。常に想像できるようにしておきたい。どうしたって、自然が少ない都心だからこそ、意識して忘れないようにしないといけないと思った。現実は、ザラザラしてるんだ。


 海を見ると、あの時のザラザラを思い出す。


 海はウチを少しだけ大人にしてくれた。


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