【エッセイ】 当たり前の反対は、ありがとう。
「当たり前の反対は、ありがとう、なんだよ」
子どもの頃、父にそう教えられた。
正直、なにを言っているのか分からなかった。
だって当たり前の反対は、「当たり前じゃない」でしょう。当たり前じゃないことは滅多にないことだから、「珍しい」とかの方がしっくりくる。とてもじゃないけど「ありがとう」という言葉とは結びつかなかった。
でも、どういうわけか、父の言葉はあたしの頭にこびりついていて、「ありがとう」という言葉を発するたびに、「当たり前の反対」という文字が浮かんだ。
消しゴムを拾ってくれた、ありがとう。
教科書を貸してくれた、ありがとう。
相談に乗ってくれた、ありがとう。
一緒に映画を見てくれた、ありがとう。
共に夜を明かしてくれた、ありがとう。
後ろに「当たり前の反対」と呟くだけで、ありがたみが深くなるような気がして、感謝しているのは自分のはずなのに、言った自分の方がホクホクとした気分を味わっていた。
年齢を重ねるたびに、「ありがとう」は積み重なっていき、次第に父の言葉の意味がボンヤリとだけど、輪郭を持ち始めたような気がする。
「そうか、当たり前じゃないから、『ありがとう』って言うんだ!」
そう実感として思えるようになったのは、20代前半の頃だったかしら。
とっくの昔に気づいてもおかしくないような発見だったけど、あたしにとっては大事件だった。
「『ありがとう』と思った時に言えばいい」という感覚的な理解だったものが、言葉と実態が同時に身体に染み込んでくるような想いだった。
「ありがとう」は、「有り難し」が語源だと言われている。
有り難し、とは滅多にないことであり、珍しいことをいう。そう考えると、あたしは昔から「ありがとう」の意味を知っていたのかもしれないね。ただ、感覚として掴めなかっただけで。ちゃんと理解するまでには時間が必要だった。時間が必要な時って、必ずある。
今では、昔よりも積極的に「ありがとう」を使っている。
だが、その言葉を教えてくれた父は、あたしの側にはいない。母の側にもいない。二人は、あたしが学生時代に離婚している。もう、しばらく父とは会っていない。ずいぶん前のことだけど、あの頃の記憶は美化されることなく割と鮮明に残っている。
あたしはもう、父と会うことはないだろう。
でも、「ありがとう」を教えてくれた父には心から感謝している。
本当にありがとう。その教えだけは、ずっと残り続けている。
少しだけおセンチなことを書いてしまったけど、もしかしたら、今の想いも時間と共に変化するのかもしれないね!
人生において、当たり前のことはないんだから。
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