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【エッセイ】 ゼロってなあに?


向かいの角の席に、黄色いベレー帽を被った幼児がいた。その子は、青っぱなを垂らしながら、鼻に詰まった高い声をあげている。垂れた目尻、その中に光る、まあるい黒目。顔のパーツはデッサンで描くように、下半分には集まっていない。子どもなんだけど、大人びた顔だった。

窓の向こうですれ違う電車の色に、いちいち反応し、両隣に座る親を困らせている。かわいい。思わず笑みが漏れてしまう。マスクをしていてよかった。ウチは、目に微笑みが宿らないタイプだから。表情は読み取られないだろう。

電車に揺られている時、ウチは車内の様子を探ることが多い。どんな人がいて、みんながどんなことをしているのかが気になってしまうのだ。世界の縮図を見ているような気分になる。思った以上に変な人は多い。男女問わずね。

混んでいるのに、リュックを前に抱えないで平気でスマホを眺めてる男性。へんだ。電車が揺れて、人の体が触れるたびに、眉間に深いシワを寄せて左右の人をにらむ女性。ヘンテコだ。見た目は普通だし、清潔感がないわけでもない。奇抜な行動をしているわけでもない。でも、変な人は多い。へんだと思えない人が多い。マタニティマークや、ヘルプマークに気付けないのは、その存在を知らないからかなあ。

みんなが見ている世界が気になる。ウチが感じる「へん」の感覚だって、気にならない人も大勢いる。だから気になる。靴を脱ぎっぱなしのまま、家に上がる人の感覚が知りたい。全ての食事が終わるまで、テーブルの上の食器を片付けようとしない人の感覚が知りたい。一人一人が見ている当たり前が、誰かにとってはヘンテコにうつる。それが面白いと思うんだ。

黄色いベレー帽の幼児が、鼻に詰まった声で言った。

「ねえ、ゼロってなあに?」

ウチ、驚いちゃった。黄色いベレー帽の隣に座る父親のマスクの下から困惑の声が聞こえる。毛玉だらけのニット帽を目深に被っているが、すきまから見えるきらきらした瞳は、子どもそっくり。黒目がちなんだね、二人とも。もごもごと何かを言っているが、内容までは分からなかった。

ゼロってなんだろう。

なんだろうね。ウチまで、その質問に考え込んでしまったよ。たぶん、口はへの字に曲がっていたと思う。

黄色いベレー帽に、毛玉だらけのニット帽が近づいた。毛玉が、耳元でなにかを呟いている。ベレー帽は、目線を天に向けてから、首を少しだけ傾げた。納得いっていない様子。あはは、かわいい。なんて伝えたんだろう。

そのとき、車内アナウンスが流れ出した。ベレー帽は、大きな声でアナウンスを追いかけてアナウンスした。きみきみ、それはシャドーイングだよ! そうやって日本語を覚えているのかい?

英語の部分までロレロレの言葉で追いかけているから、周りの大人たちもついつい笑ってしまっている。毛玉が申し訳なさそうにペコペコ頭を下げていた。気付けば、「ゼロってなあに?」の世界は無くなってしまった。

でも、ウチの中にずっとその疑問が残っている。

ゼロってなんだろう。

なんにもなし。無。それだけの説明で納得いくなら大人なんだろうけど、なんか違和感。なんかしっくりこない。それって、「空(くう)」の思想に近いんじゃないかしら。ジャパニーズ、禅てきな。でも、ゼロって違う気がするの。

ウチは、ゼロに希望を感じる。ゼロの次はイチだから。始まる前、始まる予感。そんな希望を感じてしまう。ゼロになることは、振り出しに戻ること。もう一度、始めることができるってこと。「ゼロベースで考える」。ゼロにできれば、また始められる。ゼロからのスタート。やっぱり、ゼロには希望しかない。

ゼロは、希望だよ。

黄色いベレー帽をかぶる幼児は、ウチの答えにどんな反応を見せるかな。

その、まあるい眼から見える世界を教えてほしい。



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