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コミュ障の僕が人見知りを克服できた理由

人って、見た目や先入観でやたらと決めつけたがるもの。
いや、その直感イメージでその通り合ってりゃいいけど、そんなことないよね?
僕みたいな典型的なコミュ障にとって、人見知りとは人と接することから疎外する結構な障害だったワケよ。
それはもうトラウマ的って言ってもいい。

「傷つきたくない」という心理が過剰に働くから

人見知りする人って、言ってしまえば、
食べる前からやたらと選り好みする、「なんちゃってグルメ」みたいなもんで、舌が肥える前に自分なりの「理想の味」ってのを勝手に作り上げちゃてるもんよね。

その裏には
「失敗したくない」
「自分と合わない人と絡んで傷つきたくない」
って思いが強すぎるんだと思う。

それを考えれば、見た目がやたらとグロテスクなアワビを人間で初めて食べた人ってかなり勇敢な人だと思う。
まあ、それは置いといて、
人と接する前に勝手に「付き合う人と付き合わない人」を選別するって、
予防線張りすぎ、よね。
さすがにそれは。

人見知りしたところで自分に合う人間なんて分からない

長い人生を生きてきて、人見知りをやって期間も長かったけど、
「人見知りの成果」はどうだったかと思えば、
全然当たってなかったワケ。

人見知りって、「自分に合う人」を肌感で察知するスキル(??)ってことなんだろうけど、いやもう、そんなの当たんない。
そもそも、それで自分に合う人が分かれば、それは神じゃね?って話で。

そりゃ、活発そうな人とか落ち着いてる人ってぐらいは分かるんだけど、
自分に合うか合わないか、
良い人か悪い人か、
そんなの人間関係を持ってみないと分からないワケ。

初見のイメージで「自分に合う」って思ってた人が全然合わなくて
「合わない」と思ってた人と長年付き合うことになったり、、
その過程で、人見知りの非科学性に気付いたワケ。

当たるも八卦当たらぬも八卦、ってよく言うけど、
そのレベルよりもずっと低いし、何の根拠もないって気付いたのよ。
それが分かると人見知りをする意味合いが全くなくなったワケ。


人は「違い」に磨かれる

大人になった証拠かもしれないけど、
個性の違いって貴重だし、大きなメリットと今は思ってる。
川の石は、角ばった他の石と擦り合わされることで磨かれて丸くなるように
人間だって自分と異なるタイプの人間によって磨かれるって段々分かってきたのよね。

そうなると、もはや人見知りの発想を持ち続ける意味が無いよね。
いろんな人と接すると発見も多いし、成長を促してくれる。

アワビは見るだけじゃなくて、食ってみないと美味しいかどうか、分かんないもんね!

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