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「言い訳」と「言い分」はどう違うのか
人間の思考の中で、特に何かの行動を起こそうという時の頭の中に、
他人の価値観と自分の価値観がごっちゃになって、判断基準がブレることって結構ありますよね?
本音と建前、なんて言葉もありますが、
自分が本当にやりたいことに蓋をしてしまうことって結構あると思います。
「言い分」はすでに腹落ちしている
自分の中で、「何かをやりたい」と思ったときに、その根源的なパワー、
自分の体に勝手に動いてしまう時の衝動的な突き上げってすごいものがありますよね。
「これやろう!」
「あれをやろう!」
こう思った時に、自分の中で「その理由とは。。」っていう理由付けって意識することってあります??
恐らくないと思います。
だって、もう腹が決まってるから。
「言い訳」は他人の価値観に迎合した別物
自分が決めた行動を起こす時、起こした時、
他人に「なんでそれをやるの?」って聞かれて、説明を求めれた時に
理由を初めて口にするワケです。
その時に、人はいろいろと「もっともらしいこと」を理由として言うのでしょうが、それって結局取って付けた理由であることが多いのです。
あたかも子どもが言いそうな理由で言うなら
「だってやりたかったから!」
「そう思っちゃったから!」
って感じになると思います。
こういう根源的な自己の欲求に基づいた意思表示の中身が「言い分」ですね。
ストレート過ぎて、取りつく島もないほどだけど、
これが正解であり、本心を語ってるワケですよね。
「言い分」ってやつは。
第三者の理解力に依存する言い訳は言い分とズレる
例えば、「なんで平和がイイの?」って聞かれて、
「人類とは助け合うものだから」とか「文明が進んだ現代にそぐわない」という理由の表現は、
学術的、あるいは理屈上は正しいのですが、
「だって、笑顔があふれた世界がイイじゃん!」とか「人が苦しむのってイヤ!」って言われたほうがピンとくるし、腹落ちします。
先ほどお伝えしたように「言い訳」とは他人が理解しやすいように、
他人の価値観でも理解できるよう、世間の共通言語に「翻訳」して言語化したものです。
あくまで他人のテーブルに自分が迎合して、客観的な価値観に配慮した伝え方をしたものです。
「翻訳」ですから、おおよその意味は合ってるでしょうが、ニュアンスも違うし、本質そのものからはズレが生じますね。
方程式的にまとめると、
言い訳=客観、第三者の価値で理解可能
となります。
一方で、
言い分=主観、自分の中でしっかり腹落ちしているもの。根源的な欲求そのもの。ただし、第三者に理解できるかは不明。
こういう感じになるかと思います。
もんじゃ焼きとお好み焼きは親戚か?
もんじゃ焼きを見たことも食べたことも無い人に説明する時に、
「もんじゃ焼きって、言うなればお好み焼きの親戚みたいなものだよ!」
って言ったら、なんとなくイメージは相手に伝わるかもしれないけど、
私は「まったく違げーよ!」って思ってしまいます。
こんな風に伝わり度合いを重視したばかりに、「肝心さ」「本質」がどこかに吹き飛んでしまう、というのが怖いところ。
だから、言い訳に固執せず、自分の言い分を手放すな、って言ってます。
人生の目的が幸せなら言い分を手放すな
たしかに、日常生活ではいろんな人間と生活しており、コミュニケーションが大切になってくるので、相手のテーブル、価値観に乗っかって、翻訳する必要もあるかもしれませんけど、
自分の思考の中まで、脳みその中まで誰か他人の価値観で物事を考える必要なんてこれっぽっちもないんですよね。
人生って、誰かのために生きているワケで、自分自身が幸せにならないと意味が無い。
だったら、誰かの目を気にしたり、言い訳として通ることかと無駄に不安になる必要なんて無くって、
自分自身のハラが決まるかどうか、そこが一番大切な部分だと思います。
つまり、まとめると
自分がいかに幸せになるか、という人生の大命題を考えた時に、
第三者の反応だとか、理解可能かどうかなんて、どうだって良い話。
コメンテーターのひろゆきに「それってあなたの意見ですよね?ちょっと分からないんですけど」って言われても、
「そんなもん、知らんがな!」と逆に言い返せばいい。
「自分はやりてーと思ったの!ほっといて!」
それ言ってやればOK。
言い訳を想定した行動ではなく、
自分の言い分をしっかりと握りしめて
すすんでいきましょう。
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