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AI時代に私達が求めるものは「どうしようもない人間臭さ」だという話。

最近、世間がなにかとAIだ、ChatGPTだと騒がしい。
最新技術によって人間の暮らしが大きく変容していくのは今に始まったことではないし(産業革命が起こった頃のヨーロッパの混乱は推して知るべし)、科学技術というものは生活のクオリティを向上させる手段なのだから、あまり難しいことは考えずに必要な部分を有効活用すればいいだけの話だとは思っている。

とはいえ、みんなの関心が「AIに代替されない価値とは?」というテーマに傾いていることは事実。かくいう私も、AIと自分自身の関係性にまったく頓着がないかというと嘘になる(頭の隅っこでいつもなんとなーく漠然とした期待と不安がある感じ)。

だがそんなことは、ここ数年さまざまな賢人達がいろんな議論を重ねてきていることだから、今さらAI素人の編集者が書くnote記事ごときで新しい気づきを提示できるとも思っていないのだけど、「次世代の教科書」という出版シリーズの価値を考える上でとても重要な問いになりそうなので、改めて真剣に考えてみることにする。

頭の片隅の漠然とした不安

そもそも、AIに取って代わられてしまうという不安の根源は何なのか。
おそらくそれは人間の価値を機能的にしか捉えていないこと、そしてAIの万能性という漠然としたものへの恐怖によると考える。
それはたいてい、AIが「今まで人間の領域だったものもすべてできてしまう」というような可能性のイメージを植え付けられているからではないだろうか。

それがクリエイティブな領域にかかってくると、不安はますます色濃くなる。絵もかけます、詩も散文も作れます。作曲も出来ます。人の感性を通じてでしかできないと思っていたこと、今まで人間という神秘のヴェールに包まれていたと思っていたものが、いとも簡単に解明されてしまったような感覚。

でもちょっと待とう。外形的には同じように見えるが、人間が作ったものとAIが作ったものは本当に「同じ」なのか?
詳しくは知らないし、知ったような口を利くとその筋の人にお叱りを受ける気がするが、AIというのは用意されたデータをつなぎ合わせたり組み替えたりして高度な計算的処理をしているだけのものだと思っている。
であるならば、AIが作るものは世界にすでにある有り物をツギハギした、限りなくオリジナルに見えるコピーだ(そのツギハギの範囲と処理速度が圧倒的というだけで)。

たしかにその能力は、私達が「それっぽく見えるもの」だけを作品の価値として求めるならば、人間による創作と十分代替可能なものだともいえるだろう。

人間だけに、どうしようもなくあるもの

ここで質問。

私達は、絵や音楽を小説といった表現作品を好きになる時、その作品の「どこ」に心を動かされるだろうか?

問いがあれば、答えは人それぞれだ。一つの答えに集約しようという気はない。だけど、私自身の答えを言わせてもらえば、私は作品を通して見える作者の人間臭さに心を動かされる。
もちろん作品に始めて出会ったときの言語に尽くしがたい衝撃は、それとはまた別種の感動としてあるのだけど、やはり向き合えば向き合うほど、その奥にいる生身の人間の存在を感じるようになる。

そう、「人間臭さ」だ。
このタッチに辿り着くまでに悩んで悩んで試行錯誤し続けたんだろうな、とか。
この曲を作り上げた瞬間、震えが止まらなかっただろうな、とか。
この文章を書き上げるために寿命を5年は削っただろうな、とか。
作品に織り込まれた、喜びや絶望、歓喜や逡巡、それらすべてを含んだ人間が醸し出す匂いのすべて。

これこそが、人間にしか出せない、というより、人間がどうしようもなく出してしまうオリジナリティだ。その奥行は、今のところAIにはないと思う。
考えてみれば当たり前のことで、人間の暮らしや思考の積み重ねが、ひとつの作品ににじみ出ているだけのことで、それはもはや生活をする生き物としての宿命とも言えるものだ。

もしかしたら、個別のシステム体系を持ったAIが今後何十年、何百年と歴史を作っていけば、つまりAIが生活の積み重ねを得れば、「AIくささ」といったものが生まれていくのかもしれない。
でもそれは別に恐れるべきことではないと思う。
新しい生活観を持った存在が世界にひとつ増えるということにすぎない。
赤ちゃんが生まれて、育っていく。喜ばしいことだ。

それに、もしAIによって人間という存在の領域が拡張されていくというなら、今話題のダイバーシティへのドラスティックな問題提起ではないか。SF小説の世界がやってくるワクワクがある。

いずれにせよ、AIによって人間が拡張されることはあれど、人間の独自性が脅かされるなどということは本質的にはないと思うのだ。

本こそが、AI時代に必要なものである。

さて、ここまで述べてきた上で、本の作り手として改めて主張しておきたいのは、本というのは「人間くささ」が一番出るツールかもしれないということ。

著者の人生の積み重ねが一冊の本になる。これは間違いない。そして、文章を書いては直し、書いてはまた直しといった苦悩の蓄積が、そのプロセスの重さが、読んだものの心に深く刺さるのだと思う。これは、文章を人に伝えるという営みが生まれたときから今この瞬間まで脈々と続いてきた人類の歴史そのものだ。

そして、この文章を通した人間臭さこそが、AI時代に生きる私達にとって、再発掘されるべきかけがえのない価値なのではないかと思う。
人間の泥臭い営みだけが与えられる感動と学び。
そういったものが、AIやネットコンテンツの真新しさの影で腐っていくのは本当にもったいない。
端的に言って、ネットやSNSの「真新しさと刺激とスピード」に私達は疲れている。そこに躁状態の熱気はあれど、すぐに冷めてしまう瞬間の人工熱にすぎない。

本は一人の人間の血で出来ている。
その血の熱さは、読者の中にゆっくりとゆっくりと流れ込む。
どんな時代にも変わらず人の心を揺り動かすエネルギーが、そこにはある。

もちろんそれを作り上げるためには、企画や編集制作ふくめて、本の作り手側が、著者の魅力を最大限に引き出す努力をしなければならない。
だから私達は、本当に次世代に必要なことをしていると思った人しか著者候補にしない。
彼らの「人間くささ」が、未来に息づく人たちへの希望に繋がっていると感じられる人しか。

その努力を怠ることは、このシリーズの死を意味する。
それは重圧でもあり、やりがいでもある。

だからこそ、私はいまあえて陳腐なことを言いたい。

「本こそが、AI時代に必要なものである。」

(「次世代の教科書」編集部デスク 松田)

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