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君に届ける、初夏の風2

前回の続きになります。読んでない方はぜひ初めから、、、



「さあ、ついたよ。」
道中、弾丸のように浴びせられていた葉一の喋りから解放され、葵はホッと一息ついた。そのやかましさと言ったら東京の中心街にも引けを取らないだろう。葵は元来静かな空間を好む。家の中が、母と自分とだけでは静かな空間になりがちだったからかもしれない。はたまた母の放任主義から、幼少に夜の繁華街に出かけ、オニーサンらに食らったトラウマによるものかもしれない。とりあえず葵は騒がしいこと、疲れることは基本的にしたくない少年であった。

山守家の門をくぐると、使用人たちが数人迎えに来て、葵と葉一は大広間まで案内された。好奇の視線と、横切ったふすまから漏れ出るくぐもった声を聞く限り、この邸宅には相当の人間がいるようだった。足音を立てて歩かない使用人たちと、床をきしませて歩く自分と葉一。歩く。開ける。進む。曲がる。また歩く。開く。あるく、あるく、あるく…。
先ほどまで嵐のようにしゃべっていた葉一が打って変わって一言たりとも発さず、能面のような顔でいることが不気味さに拍車をかける。


「お待たせいたしました。こちらになります。」
だしぬけに無音でたちどまった使用人がそう言い、続けざまにふすまを開けた。開けた視界には、これまで通ってきた屋敷内とは違って、あまりにも簡素な空間が広がっていた。広い部屋に光沢のある床板が張られ、入って左手は一面ガラス窓。奥手には床に直置きで、花が活けてある花瓶。それに男か、女かわからないような老人が一人椅子に腰かけていた。
「おはいり」
声を聞いてやっと女の人だとわかった葵は、促されるまま老婆に対峙するように艶めく床に置かれた腰掛に座った。


「ようく戻ったな。赤ん坊がここまで大きくなるのは本当に不思議なこと。」
ゆったりとした口ぶりで老婆は口を開いた。
「はあ。」
「ん…目の形が円に似ているねぇ、それに口元。器量は良しといったとこだね。」
「あ、どうもありがとうございます。それで、あの、俺はここには高校卒業するまではいさせてほしいと思っているんですが…。」
「かまわん。ただ、高校には通わせられないよ。」
「え?」
「うちから最寄りの高校までは、少なくとも二時間半、片道でかかる。家に教員はいるからその者らに教わりなさい。山守の子供はみなそうして育ってきたからね。郷に入りては…だよ。」
さすが田舎の大地主としか言いようのない。母さんがどこか浮世離れしていたのも、十八までまともに社会とかかわったことがなかったからかもしれない。

「さあもうお行き。好きな部屋をお使い。それから、今夜から明日の夜にかけてだけは部屋から出歩いたらいけないよ。」
突然誰かもわからないような人のもとに行き、一方的に話されて退室させられてしまった。一体あの老婆は何だったのだろうか、葵はそんなことを考えてまた使用人の後をついていった。

 住むのに決めた部屋は、いくつか棟のある中で一番山よりの、母さんが住んでいたらしい部屋にした。立葵の間。十畳ほどのへやで、一人でいるには広すぎるほどだ。何か母さんの痕跡でもあれば。葵は時折こうして無意識に円を探してしまっていた。
 円は夜勤中に、ぱたっと亡くなったらしい。若年性心筋梗塞。もちろん葵が円のもとに行った時には、すでに息を引き取っていた。自分に無関心だった円の最後の言葉も、葵の進学先に対してただ一言、葵の好きにしな、だった。葵は生まれたときから母が死ぬまでに、自分の母親について知らされたことが少なすぎた。大きなひとみをこちらに向けて、円は葵の話を聞いてくれた。でも葵に自分の話はしなかった。何かを強制することもしない代わりに、これまで期待もされなかったように思う。何か足りない。よくわからない渇望感は幼いころから葵に中にあって、それは今もそうだった。

 母について思案の海に沈んでいたら、ふすまの向こう側に人の気配がした。
「先方ぶり、葵君。僕の娘を紹介してもいかな?」
老婆と会う前のよりいくらか明るい調子の葉一の声色に安心して、ふすまを開ける。ジャケットを脱いだ葉一と、すっと線が細く、葵とそう身長の変わらない少女が傍らに立っていた。
「こんばんは。夜分にごめんなさい、父がどうしても今夜だって言ってきかなくて。」
いえ、かまいませんよ、と言いながら葵はまだ何も物のない部屋に案内した。

続く

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