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言葉にも公私のけじめがあって

服装に普段着と外出着があるように、言葉にも公私の区別があること、この頃忘れられているのかも。

家族や友人と話すモードと、会社や公共の場で話すモード。

仲間内では普通でも他所よそでは使わない言葉もありますよね。
業界用語とか、仲間言葉とか、同じグループの所属であることを確かめあったり、強化したりするような言葉。
それは敬語表現以前の部分なのよね。

逆に、機械的にマニュアル化された不自然な敬語が使われることも多い、というか、もうほとんどそれが標準化してたりして……。
 

日本語って、おそらく世界的に見てもちょっと変わった言語。
(大学で国語学という学問に出会って以来、コトバにこだわり続けたわたしの目には、そう見えます)

ちょっとした言葉の選び方、使い方で、人間関係を表現する。
心の距離感や、親しみや愛情、あるいは社会的上下関係まで、さまざまに使い分ける。

それは、文化としての豊かさの一面だとわたしには思えるのだけど、それが通じにくくなっているなと思うことが多くて、ちょっと寂しい気持ちです。
 

もちろん、どんなに適切な表現をしても、その内に心が込められていないなら、伝わるものもないのだけれど。

だから不自然な言葉使いであっても、何かを伝えようとして話してくれる人にはこちらも耳を傾け、心を開きます。
最後にはそこ。ですよね。
 

でもね。
そうであっても、やっぱり、自国の文化の神髄である母国語をもっともっと大事にする世の中であってほしい。
本と言葉で生きてきた人間として、心からそう願っています。

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