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【三国志・考】乱世の前兆・黄巾の乱

 400年中国を統治した漢王朝だが、長きに亘る政治腐敗はとどまることをしらず二世紀末には官職が売りに出される始末であった。賄賂というレベルでなく密かにではあるがオフィシャルで政治家の地位に値札がつけられていたと正史に記されているのだから始末が悪い。

 そのようにして政治家になった者は「濁流派」と呼ばれるのだが、彼らは官職を得てから、そのために投資(?)した金額を増税によってペイしようとすることもあったそうである。民としたら溜まったものではない。

民がすがった太平道

 170~180年代の中国は凶作、飢饉、異常気象、疫病などで民衆はあらがいようのない最悪な状況の中をなんとか生きていた。困窮する者たちを救済せずに徴税だけはしっかりしていく国家から逃れる術はない民衆。そんなとき人が何に救いを求めるかといえば宗教の教えくらいしかなかったのだろう。
 このころ北部出身の張角なる人物が弟子とともに病人に罪を懺悔させ、お札と聖水、呪文によって病気を治癒させるという行為を行なっていた。彼は太平道なる宗教の教祖となり布教活動を行なった。この太平道が邪教か否かは判断が難しい。少なくとも、ときの王朝よりは民衆のために行動をおこしていたと思われる。

 平和な世ならば太平道が広まらなかった可能性は高いが、この時代背景を生きる民が搾取していく国家と怪しげであろうと手を差し伸べてくれる道教のどちらを信じるかは考えるまでもない。
 案の定、太平道は10年あまりで中国北部から東部で数十万の信徒を集めた。

蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉

「蒼い天はすでに死んだ 代わって黄色の天が立つ 
 歳は甲子に在り 天下は大いに吉とならん」

 上記は太平道が掲げたスローガンである。
「蒼い天」とは漢王朝の天下をさし、「黄色の天」とは太平道をさす。そして十干十二支の最初の組み合わせである「甲子」の年(このときの甲子は184年をさす)に決起すれば天下は安泰となる。だいたい、そのような意味だ。
ちなみに日本の阪神甲子園球場は完成予定の大正13年(1924年)が甲子の年であったため縁起がよいということで命名されたそうである。

 そして組織化された太平道は漢王朝に対して蜂起する準備を着々と進めていった。張角の布教活動の最終目的が当初から国家転覆であったかは不明だが、蜂起の手始めとして謀略を用いる。

 まず馬元義という幹部が賄賂によって宦官に取り入り、漢王朝を内部から崩そうとした。内部で協力者を作り、事を起こす日を3月5日と定めたが、その日が来る前に計画が露見し、馬元義と約1,000人の太平道の息がかかった者は処刑されてしまう。

 張角もこうなると早急に蜂起をせねばならなかったのは当然で、昼夜兼行で各地の拠点に軍事行動の号令を放った。武装集団となった太平道の信徒たちは黄色の頭巾をかぶり、仲間である目印とした。
 このことから反乱は「黄巾の乱」として後世に語り継がれることとなり、後漢書にもこの反乱軍をさして「黄巾」と記述が残されている。

漢王朝の官軍

 ときの皇帝・劉宏はこの反乱鎮圧のため自身の皇后の兄である何進を最高指揮官・大将軍に任じた。この人事は何進が皇帝の外戚であることが大きな理由なのは間違いないが、彼は自らが指揮する軍で地方の反乱軍を破る功績を挙げていることが正史には記されている。なお先の馬元義の謀略を事前に察知して対処したのも彼だった。少なくとも正史上ではそういうことになっている。

『三国志演義』や他の作品で何の取り柄もない無能な人物のようなイメージで描かれる何進だが、曲がりなりにも一国の大将軍を任された人物がボンクラであったとは考えにくいと筆者は以前から感じている。かといって突出した能力を持っていたとは思えない。賊軍を相手に勝利を収められたのも優秀な参謀がいた、鍛えられた歴戦の精鋭ばかりを軍に編成したなどの理由があったと推測される。なにせ兵権をもつ大将軍なのだから自分が最も強い部隊を率いるに決まっている。

官軍と義勇軍

 このころの漢王朝に優秀な人材がいなかったわけではない。
 何進の下で盧植、皇甫嵩、朱儁などは名将として後漢書にそれぞれ独立した伝が立てられ、詳しく記述が残されている。彼らが遠征した賊軍の拠点は陥落したが、そのほかの地方で賊軍に対した官軍は苦戦を強いられている。理由のひとつとして連戦連勝であった盧植が宦官への賄賂を拒否したことで恨まれ、無実の罪を着せられて投獄されたことがある。

 その後任となったのは、のちに都にて民のみならず諸侯と皇帝までも恐怖に陥れることとなる董卓だったが賊軍に敗戦を喫し免職されている。史書にただ「敗れた」としかないのは妙だ。董卓は異民族・羌族を味方につけ、強力な騎馬隊を擁していたはずである。のちに董卓が絶大な権力を握ることを考えると、この敗戦は時勢を読んだかのような意図的なものを感じる。

 黄巾の乱は複数の拠点が官軍によって制圧されたことや首謀者・張角が病死したことで徐々に沈静化した。その後も残党は各地で反乱を繰り返したが国家を傾けるほどの勢いはなく、黄巾の乱は張角の死によって、ひとますは終結したというのが一般的な理解といってよいだろう。

 黄巾の乱が漢王朝の衰退を象徴する事態であったことは確かなことだ。そして、重要なことがもうひとつある。この大規模な反乱鎮圧には、のちに三国時代の礎を築く青年三人が参加していたことだ。

 皇帝の一族を自称し、大志を抱いて漢王朝への大義の名のもとに義兵を挙げた劉備。
 兵法家・孫子の末裔とされ、以前の反乱鎮圧の実績で朱儁から参加要請をうけた孫堅。
 宦官の孫であり、すでに漢王朝の臣として皇甫嵩と朱儁の下に配属された曹操。

 彼らは皆、この反乱を契機に頭角を現し戦乱の時代に身を投じることとなる。いよいよ群雄割拠の時代だ。そこへ至るには再び漢王朝の内部抗争と混乱が関係してくる。本来、黄巾の乱は朝臣が一丸となるきっかけとなり得たはずだが、そうならないところが国家の腐敗を物語っている。

 その経緯と考察はまた次回に。
 三国時代に至るまでの話はまだまだ長い。

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