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「とあるキーン」

足跡ひとつない白く輝く雪の上に、ぽっかりと青空が広がっている。
帽子がふいに飛んだのは、重力ではなく風のせいだった。とあるキーンは火星を目指したのに、地球に留まってしまった。
しかも辺り一面を雪に覆われたなだらかな銀幕の世界に。
山高帽が上へと飛んでいく。押さえていなければ飛び出してしまう、わたしの哀しみが全部、とキーンは思った。

影が左右に小さく現れる。雲はない。
皆が白黒の正装をして、音符のように立ち尽くしたまま不規則な風を待っている。入道雲が現れて、また一人、女性を生んだ。寂し気にポケットに手を突っ込んだまま立っている。遠くでは白樺が揺れている。

女性は少女だった時の夢を見ていた。いつでも同じ風景を繰り返した。トランプのカードが手から飛んでいく。クローバーの9とダイヤの8はいつでも隣同士でキングは半分しか顔を出さない。花びらのように気軽に吹く。雪の上に落ちたカードを眺める時が一番美しいからだ。太陽も南天から一緒に眺めている。

「おいっ」と強気な声が響いたので振り返ると呼び止める者は誰もおらず、過去の自分なのだとキーンは気づく。帽子をかぶり直すとポケットに手を突っ込んだ。細い首のチーターが、二人の間を颯爽と駆け抜けていく。丘陵には彼ら以外誰もいなくなった。
二人は並んで写真を撮ることにした。人生で初めての、愛することになる人との記念撮影だった。小瓶の中に咲いていた花を抱えて並んだ。
ガラスひとつと人間ふたつ。所々に生えた草を模様としてキーンは右足を交差させ彼女は腰に手を当て存在を誇示した。真正面でシャッターが切られていく。

土はさらさらして所々に緑が生えている季節になった。乾いた空気が風船の中へ流れていく。風船の外にある空気と中にある空気の質量は同じだろうか。いや、ちがう。風船の中にある意識と外にある意識は同じだろうか。おそらく、おなじ。風船に閉じ込めたことで、ふたりの意識が区分された。いままでは乾いた大地の上を滑っていただけだったのに。
キーンたちは当然のごとく、風船を高く高く空に掲げて見せた。

 彼女は水平線の恋人でも待っているのだろう、とキーンは悩ましく思う事があった。蒼い波止場でこちらを向きながら、ずれた帽子を直さないでいる。海は平穏で白波が緑の根本で佇んでいる。彼女はおそらく波の声を聴いたのだろう。だからあんなにも不愛想に、誰にも気兼ねなく湿った瞳をしていられるのだ。

 クレーンで吊られた荷物は海の上へ届けられた。ぼとり、ぼとりと段ボールが落とされていく。中には男女5人の分厚いセーターが入っていた。
誰も視線を合わせようとはしなかった。風が吹かないから互いが見つめる先は異なる。山が右か左かと分けないように、待っている荷物もただ前を見ている。帽子の先に埋め込められた衛星は成層圏まで届く。「ひとりでいるのはつらいでしょう」と御婦人は鍵をかざして言った。

波が二等辺三角形に広がって砂が並行分裂している浜辺で、少しだけ、と彼女を抱きしめた。寒いと言って半分以上を占める温もりを手放せないでいる。
とあるキーンは白黒の紳士だった。

左手を肩に乗せて目を細めた。黒い傘がコートと繋がって、「清掃員みたいね」と機械の国からやってきたという彼女は言った。
彼女を模写したようなラナンキュラスは縞模様のリボンを結び付けられて笑っている。砂の声を知らないキーンは、まだ傘で掃き続けなければいけないと思っていた。「任務を終えて、もう遊ぼうよ」と彼女が誘う。

毎日、雪の完璧さにかなうものなんているものかとキーンは思った。毎年、水晶の高潔さに挑めるものなんているのかしらと彼女は思った。

熱くなった魂に議論をさせてくしゃみしてばかりいた。暗闇の中に光を見ようとする正直者だねと、語りながら時空間を閉じ込める。今、今、今と。
キーンは写真家だった。いつも生きたのは、彼が撮影をしてきた風景の中だった。


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