親不孝者

泣きながら焼香をあげたら、あとから親戚のひさ子おばあちゃんに「それだけ想われていたらお母さんも嬉しかったろうよ」と言われた。だが、考えたことはあっても想ったことなど一度もない。

学者として、1人の人間として、ひたすら研究と思考を重ねた。親についても考えた。私は親にどうするべきなのか。私は親に優しくするべきだと…………世間一般的な表現をすれば、親孝行をするべきだと思った。

優しさには量的な違いがあるのはもちろん、質的な違いもある。見ず知らずの人からの親切はときには怖いくらいだし、友人にどれだけ優しくされても恋人に冷たくされたら満たされない思いがある。
たった一人の息子からの優しさ、それを届けられるのは私しかいないわけで、親孝行は義務として理解も納得もしている。

だが、本当の親孝行とはなんだろうか。
家や孫を与えることだろうか。では、病のせいで生活に困窮し、孫も見せられないような子供は親不孝者だろうか。そんなことはないだろう。
我々が行為や物質を求めるのは、ひとえに愛を確かめるためにある。

一般的に、尽くされたりプレゼントされることは愛情を意味しているから、人々は相手からそうされることを望むが、ならば本当は、愛を確かめられるのならなんだっていい。いちばん重要なのは愛で、それさえあればいいのだ。

逆に、いくら包装が豪華でも中身がなければ意味がないように、いくら豪邸を贈ろうと子供を作ろうと、そこに愛がなければ意味はない。
分かりやすい例を挙げると、ベンチャー企業の天才社長が彼にとって端金の1億円で家を建ててやることと、彼が手作りのケーキでもプレゼントすることには、甲乙つけ難いだろう。明確な金銭的な差があるというのに。

私はついぞ母親を愛せなかった。彼女のヒステリーは私に実害を与えていたから、多様性とは認められなかった。
優しくはしたが、そこに愛はなかった。私は空箱を贈ることに終始した。
推し活をする女子が、好きにならなくてもいいのに、アイドルを好きにならずにはいられないように、私も、嫌いにならなくたっていいのに嫌いにならずにいられなかった。

ヒステリーも陰謀論にハマりかけていることも個性であるというのに、それをネガティブなレッテルを貼らずにはいられなくて、60歳になってもうじうじ悩んでいる。いや、悩んでいた。

父親に続いて母親も死んだから、これがスロットで、かつもう1人親族が死んだら、親族連続死亡スロット当たりだななんて思ったりもして、少し笑った。だが焼香をあげるとき泣いてしまった。

泣いた理由は親を想ってではない。自分の情けなさと性根の悪さに対する悔しさと怒りだ。
母を好きになれなかった私はいつまでも親孝行ができなかった。母親は地頭がいいし、なんだかんだ冷静だし、60年も付き合っていたら気づいていただろう。子にプレゼントを贈ったら、空箱が返ってくる虚しさに。

周りが持っている物を自分だけ持っていない辛さは誰よりも分かるから、普通の人のフリをして親孝行のフリをしたが、最期に見た表情はひどく冷たかった。

「それだけ想われていたらお母さんも嬉しかったろうよ」

あの老婆の言葉は屈辱的だった。
皮肉だった。
皮肉……
皮はまだしも、あとは骨しかないような婆が……………脳無しに………………

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