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真理主義論 草案

人類最初の真理は「超越的ななにか」だった。次は「理性」、その次は「実存」、そのさらに次は「構造」、最後は「反哲学」。歴代の哲学は先人を打ち倒して新しいものを作る、という仕組みなので、「真理を否定する真理」の次に真理は作られない…………いや、むしろ真理を否定するからこそ、この世には真理しか無くなるのだ。

この真理は別の言い方もできる。

「絶対は絶対にない」

ならば、私が私を「世界一の画家になれる才能がある」と主張したとき、私に向けられる「その可能性は0%である」という反論はすべてこの真理でなぎ倒せる。
そのとき、世界には、私に画家の才能がある、という意見に賛同する者が1人(私自身)、否定できる者が0人となり、私は「世界一の画家になれる才能がある」という真理を手に入れる。
もちろん、その可能性は低いと指摘する者はいくらでも出てくるだろうが、それは否定ではない。だからぜんぶ無視していい。

「真理が存在しないことは真理」は真理を疑った結果である。真理とは疑った瞬間に成り立たない。なら、疑えばどんな真理も破壊できて、疑わなければどんな真理も成立する。

その一方で、「真理を否定する真理」にはもう2つの言い方がある。

「すべてのものは疑える」
「疑いようのあるものしかないことは疑いようがない」

だから、どれだけ疑っても、疑うこと自体が肯定になってしまうため、成立しかできない。

「超越的ななにか」、西洋哲学で言えば「神(他人から与えられた真理)」を疑うことで始まった合理主義からの流れは、「超越的ななにか(自分が真理と思いたい真理)」を疑わない、という皮肉のような当然の形で終わる。

「疑うから真理がなくなるなら、疑わなければいいじゃん。その真理は疑えないよね」

キリストを信じてもいい、理性を信じてもいい、実存を信じてもいい、構造を信じてもいい、真理主義を疑わなくてもいい、これからはなにもかもできる。
しかし、これは「真理なんてない」というポスト構造主義ではない。真理がないと信じたいなら信じればいいし、しかし真理がないという真理にそれが包まれる以上、確かに真理はある。真理を否定するだけで終わらないのだ。

真理を否定する真理は土台になる。その上になにを作るか(どんな真理を手に入れるか)は自分で決めなければならない。先ほど、自分が自分だけを信じられれば賛同者1名で否定できるものは0名になる、と述べたが、逆に言えば、自分が自分を信じられないなら誰も肯定も否定もしないがゆえにどう生きればいいか分からない。たとえ、他人が真理を……たとえばキリスト教などを教え込んできたとしても、それを受容するか拒否するかの判断は自分だけができるのだ。たとえそれが幼少期の、判断力が弱い状態だったとしても。

信じるものはなんでもいい。王道は宗教だ。もちろん、今まで散々疑われてきたものを信じるのが難しいと言うなら信じなくていい。
常識や社会でもいい。自分が困っても、何かが誰かが助けてくれると信じればいくらか楽だろう。自分の能力や才能、友人や両親でもいい。優しくすれば優しくされるとか、外出するときの最初の一歩が右足だとその日は幸運に恵まれるとか、おまじないでもいい。
一つのことだけを信じなくてもいいし、なにを信じるか変えてもいい。
だが、それがなぜかを知らずにするなら……真理主義を知らずにするなら、他人や、他人に造られその手から独立しかけている常識・社会などに操られてしまう。

あらゆる真理は疑いようがあるから成立しない、といつことは、疑わない限り真理は成立するということを意味する。

(今までの意味での)真理を見つけられなかったのは、あらゆる疑問の根本が理性と感覚、主観と客観の問題になるからだ。感覚は普通に騙されるとして、理性の正しさを示すとき、理性を使う以外の方法がないからダメだ。また真の客観があらゆる主観の集合体という机上の存在である以上、主観と客観っぽい主観以外の考えを持てない。

真理、つまりあらゆるものの根本になれる絶対のもの、あらゆる思考と価値の土台になれるものがなければ意味を見つけることは不可能で、すべては無意味である…………しかしすべてが無意味だからこそ、どのような意味を見出すことも可能なのである。もし意味があれば、それに縛られて一生を生きることになる。神に仕えるとか、親の仕事を継ぐとか…………

真理主義にとって私たちは「信じる」か「信じない」以外の選択肢を持たない。もし、投げたコインが表を見せて落ちる確率を80%とするなら、それは「投げたコインが表を見せて落ちる確率を80%と信じる」か「信じない」になる。確率自体を否定するわけではない。

真理主義を教え込むとき「絶対は絶対にない」と言うべきだ。この言葉をそのままに受け取るならそれはそれでいいし、疑われたとしても、彼あるいは彼女は絶対を探して絶対はないという結論に行き着く。もし絶対があれば、それは歓迎すればいいだけのことだ。

真理主義の世界で、あらゆる真理の宣伝方法は……たとえばキリスト教の宣伝方法は、「キリストを信じれば幸せになれますよ!」から、「キリスト教を信じるだけで幸せになれるってすごくないですか!?信じて見たくなりませんか!?」となる。信じられるか信じられないかの低レベルの話は終わって、信じたいか信じたくないかの話になる。

真理主義は真理を追求しなければならない主義であるからして、そのために労力と時間、金銭を割きたい。そのために必要なのは、食糧と住処と生活必需品、そして、労力と時間を抑えるための便利な道具および設備である。逆に、それ以外のすべては一掃すべきだ。経済は時間の経過に伴い生産時代(実際に必要なものだけを取引する時代)から記号消費時代(デザインやブランド、生きる上で必要のない機能を取引する時代)への傾きを強め続ける。そのためにほとんどの現代人は「価値があるって言われてるから価値がある」ものに人生を消費させられる。一方的に、まだ判断力の弱い時代から、生まれたときからその真理を教え込まれるため、違和感を覚える。その違和感は、自分たちがその経済の恩恵を受ければ受けるほど快楽に流され弱まり、逆に資本主義が格差を拡大すればするほど強まる。
今後、格差が拡大し続け、このループに気づいた者たちが真理主義に目覚めれば、その人数と度合いを変数として民主主義にいくらが作用し、どれが本当に必要でどれが本当は必要じゃないのか区別されるようになる。最終的にループが破壊され、最低限の物だけが残ったとき、人々は好きなだけ各々の真理を追求できる。それも、昔よりもよい環境で。

真理を追求する種族……哲学者といえばブルジョワや知識人の家族に生まれることが多かった。というより、そうでなければ哲学をできないくらい、真理を追求することは難易度は高かった。だが、生産時代が終わりつつあるということは生きる難易度が低下したということだし、記号消費時代が始まりつつあるということは、ただ生きるのではなく楽に生きるための物が増え続けるということなのだ。最近ではロボットが労働の一部を変わってくれている。この豊かな時代で、誰もが自分自身の真理を追求できる。

真理を追求するためには、感覚を大切にしなければならない。というより、思考は正しさを調べるために行われるが、真理主義の真理はなんでもいい。だから、「信じたいから信じる」のであって、思考はどうでもよくて、むしろ「信じたい」と思う感性が不可欠なのだ。そもそも、思考はなにかを前提にしなければ成り立たない。眼前のそれが本当にりんごなのか……と思考したとき、そのりんごが0.000001秒だけ梨にすり替わっているよと言われても否定できないくらい前提は不確かで、それでもなお思考するのは「思考したい」→「思考という手段を信じたい」という願望でしかないのだ。

真理主義の時代では、真理主義のための政治体制・経済思想が発生するので、このような高度な業務に懊悩する必要がない。むしろ、個人個人がどう生きるかに焦点が当たる。感覚を大切にするのであれば、芸術が流行になるだろう。さらに言えば、必死に金を稼ぐ必要もないし、自分だけが自分を信じていればそれだけでもうよいのだ。

我々は真理を作れなくなった、あるいは見つけられなくなったが、各人の真理をまとめれば大衆の共通観念が浮かび上がる。これは常識の素である。常識は正しいから常識であり、常識だから正しい。これを否定できる一方で、「みんなが信じたいこと」は勝手だから否定できない。これは直接民主主義を遵守し、定期的に行うことで社会の潤滑剤になる。逆に、それらがなければ常識は御者の死んだ馬車となる。

真理は思考ではなく感覚(感性)で求めるものだから、真理主義者は直感と快楽を重視し、真理主義が蔓延れば世界は荒廃する,という意見が出るだろう。だが、資本主義という実在しない価値を共通観念にする世界とは違うから、真理主義の世界に必然的な競争は少ない。各々が自分の真理を求め、そのために無用な争いを避けたがる。見つかった真理が「人から奪うこと」に属さない限り。そして避けたがるということは、真理がそれに属する可能性が低いことを意味する。

なにかを信じるのは難しいという意見もあるだろうが、別に常識や社会を信じてもいいのだ。なぜなら、みんなが常識、社会と同じ言葉を使っても、同じ認識をしているわけがないのから、それが結局は自分だけの真理になる。また、快楽から始めてもいい。りんごがおいしかったとして、次に食べるりんごがおいしいとは限らないが、それでもりんごがおいしいと信じればいい。それが幸せに生きるためであれば。また、疑い続けて(信じられないもの・ことを作り続けることで)残ったもの・ことの中から信じられそうなことを信じればいい。

結局のところ、真理主義の有無に関わらず、社会は同じようなシステムになるのかもしれない。そのだがその社会では「真理はなく真理としたいものだけがある」という共通観念がある。だから、戦争や犯罪、道徳的でも倫理的でもないものすべてに強くはないとして懐疑心を抱ける。主張する側、される側の両方が正統性を疑える。

真理主義は世界を創る営みでもある。なにもかもが不確かな世界は、我々の認識で変化する。赤色は赤色と呼んで分けるから赤色なのであって、赤色という本質を持って生まれるわけではない(実存主義)。教科書の定義をするとき、日本語で書かれているものとしたら漫画も教科書になるし、誰かに教えるための読み物としたら、観光案内所のパンフレットも教科書になるように、ルールというものも不確かである(構造主義)。五感と理性はもちろん(合理主義)。なら、決めるしかない。たとえ目の前の橋が崩れる可能性があったとしても、崩れないと信じなければ、目的地に辿り着けなさそうだ。

絶対は絶対にない、はいいとして、それが信じたいものを信じればいいということに繋がるのか?という疑問については、じゃあなにもかも信じなくていいよ、と返す。そんなことを言われても困るだろう。なら、信じるのだ。そして、どうせ信じるなら信じたいものを信じよう。

そしてそもそも、質問者は、言葉を使う時点で「言葉が通じない可能性を考慮せずに(通じるという確実ではない発想を信じて)話す」か「通じないかもしれないけど(通じるという真理を否定しつつも進展のために)話してみる」の二択のどちらかを選んでおり、その時点で真理主義に呑まれているのだ。

真理主義は、自己完結しているがゆえにはあらゆる反論を受け付けない。構造主義を否定できても新しいなにかは作れないということで「脱構築」「反哲学」が栄え、「ポスト構造主義(構造主義の次の時代)」の時代と仕方なく名付けられたが、構築主義の次の時代は真理主義だ。これも、ポスト構造主義の流れを汲んではいるが。

これからは、真理がないという真理を足がかりにどんな真理を見つけるか、それが哲学の議題になるかもしれない。

また、信じたいから信じるという観点に立ったとき、思考は0か100かではなく1から99になるがゆえに、全ての哲学は「本当っぽいもの」として息を吹き返す。

今までの哲学が真理を求めてきた一方で、真理がなくてもいいのでは?と言い出した点に、真理主義の特色である。

近代哲学の流れ

合理主義「神様なんて判断基準にならないし宗教なんて信用できない!こっからはちゃんと理性の力で合理的に物事を考えるぜ!じゃ、まずは理性の機能と限界についてしっかりと考えるぜ!」

実存主義「理性の機能と限界なんか調べたって人間について分かるわけねえだろ!人間は機械じゃないんだからどれも一緒くたにして考えんな!人間が自由で主体的で意思を持った現実の存在って前提から考えろ!」

構造主義「人間は自由で主体的で意思を持ってる?いやいや、人間の考えや行動なんて目に見えない構造に支配されてんだよ。てか、そういうこと言ってるやつらも結局みんな服も着てるし言葉も使うじゃん。まずその構造から調べるんだよ」

ポスト構造主義・反哲学「目に見えない構造ってなんですか?そんなもの分かりっこないし、分かりっこないものを主張して戦争が起きるんですよ。たしかに構造はありますけど、それを完全に把握することも、そこから抜け出すこともできないから、もう哲学なんて無駄だし真理はないんですよ。解散」

真理主義「真理がないって真理があるじゃん!!ならもう自分が信じたいことだけ信じて信じたくないことは信じないで生きようよ!!そのために政治も経済も変えて真っ新な世界から感覚と快楽を大切にしよう!!どんな反論もぶち殺せるから!!」

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