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第三回「ダンスって本当はどこにあるの?」

映画館に行けば映画が見れる。

というように、ダンスは◯◯に行けば見れるということが知られていないんだなぁと思う。確かに、「渋谷 映画」と調べれば今から5分後に上映される映画館がサジェストされるのと違って、どうやって調べたらいいかさえ初心者にはとんと見当がつかない。
バーや競馬のように、はじめは誰かに連れられてというのが多いというのも頷ける。

「ダンスは劇場に行けば見れる」

なんてことをここに書くつもりはない。
日本以外の土地で聞いてみたらなんて返ってくるのだろうか。その答えの集合体こそが、その土地でのダンスと人の関係性(接点)なのだろう。

ある意味、

お金を払うシステムとして、そして上流階級の社交場として、主に西洋で発達したのが宮廷舞踊のように劇場で見るシステムなのだ。
もう600年以上前のことだけれども、現代のダンサーも意外とこのシステムに縛られている。
1時間以上”の”作品”を”発表”しないと、”劇場”で踊れない。評価されない。
……21世紀にもなって、いったい私(たち)は何にとらわれているんだろう。

本題に戻ろう、

「ダンスってどこにあるんだろう。」

昨月幸運にも、<共創の舞踊劇>と冠のついた、障害のある人、ない人、社会的課題をかかえた人たちがごちゃまぜとなって一つ舞踊劇を創り上げる過程に参加させていただいた。
インドネシアの文化や芸能のエッセンス、即興の技術、コミュニケーションの方法が多く取り入れられ……

というか聞いてほしい、いつも私が思っているダンスとはぜーんぜん違ったのだ。

共演した方と、
本番が終わるまで(勿論終わった後も)言葉で意思疎通を一度もしてない(できない)のに、一緒に踊ると意思疎通ができている気がする、ということが起きた。

この話をことあるごとにしていると、「一緒に踊ってるってどうやったら思うの?」と聞かれる。

これは体感しないと分からない感覚なのかもしれない。
こちら側の動きに対して(多くは真似するされるの単純な応酬だけど)、なんらかの動きで返答してくれたと感じる時にそれは起こる。触れ合ったり絡み合ったり、どんどん動きが発展していったりする。

それは予測がつかなくて、心地よくて、どうなるか分からない緊張があって。

気付いたら必死で呼吸を、意思を、交信しようとしている自分がいた。

身体美としてのダンス、運動としてのダンスも勿論あるけれど、
「コミュニケーションとしてのダンス」、そして前回の記事にも書いた「メディアとしてのダンス」がもっとあってもいいんじゃないか。


ダンスとは身体によるコミュニケーションのあるところにある気がしてならない。


この記事は、企画メシ4期生による合同コラム企画「コラム街」の1つとして書かれています。「コラム街」 そのほかの執筆者のコラムはこちらから!https://note.mu/bookandmusic/n/n918043f2d2f2


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