月と六ペンス(金原瑞人訳)

私にとってこの作品は

「才能とは何か」「幸福とは何か」

 を考えさせてくれた作品です。それに対する明確な答えはまだ出ていないけれど、考えること自体は好きなので、とりあえずそれでいいと思っています。考えや答えは日々変化していくものだし、毎日とりあえずです。

 そのことについて書くために、少しだけ私自身のことを書きます。

 私は美術に関しての心得が何もありません。絵画や陶芸、彫刻などについての知識を何も持っていません。正直に言ってしまえば、興味もあんまりありません。

 音楽やアニメーション、小説については関心を持っているけれど、それらとはまた違う色を持つ分野だという気がしています。うまく言えないのですが、わかってもらえるでしょうか。

 そんな私ですが、私の友達が絵を描いていたことがあった関係で、何度か展覧会に足を運んだことがありました。規模としてもそんなに大きなものではなかったと思うのですが、とにかく美術館には数人だか数十人だかの数の人たちが描いた絵が飾られていました。

 それで、その絵の下にある作者の名前の近くに「入選作品」とか「○○特別賞」みたいなことが書かれた紙が貼ってあるわけです。

 私にはよくわかりませんでした。

 どうしてこの作品は佳作でこの作品が最優秀賞なのか。

 この人はこの絵で何を表現しようとして、実際に何を表現しているのか。

 そういうことの色々が(ちなみに私の友達は入選で彼の友達は入賞でした)よくわからない。

 ここにある絵の何が良くて何が悪いのか。具体的にどこを見たらそれが判断できるのか。絵の前でその絵を描いたらしい人に講釈を垂れている先生らしい人は、なぜああも偉そうなのか。

 「なんだかよくわからない世界だ」というのが私の美術界に対するイメージでしたし、実はそれは今もあんまり変わってはいません。

 美術に限らずあらゆることに「才能」という言葉が登場すると思います。ある程度特殊な技能や感覚を必要とするものについて語るときなんかに。

 そして、それは私の周りで言えば、多くの場合あまり良い意味で使われません。

「あの人には才能があったから成功した(私は持っていないから成功しなかった)」

「努力したって才能がなければ結果が出ない(俺が成功しなかったのは才能がなかったからだ)」

あるいは

「僕は努力が足りないから結果が出なかっただけだ(才能なんか関係ない)」

 「才能」は自分がしていること(挑戦していること)がうまくいっていないときに持ち出されてばかり。その振り回されっぷりを見ると少し気の毒になります。便利に使われすぎじゃないかと。

 私個人の考えを書かせてもらうと

「才能というものは、幻想でもなんでもなく、たしかに存在している」

 ということになります。才能は存在する。

 端的に(そしていくぶん極端に言えば)「努力が足りなかったから成功しなかった」のではなく(まぁ足りていないから成功しなかったということだってもちろんあるでしょうが、今回はそれを除いて)、「努力はしたけれど、才能がなかったから成功しなかった」という考えです。

 成功とは何か?

 それはたとえば「画家として生活していけるだけの稼ぎを得る」とかそういうことだと考えていました。まずは一定の評価を受けること。

 絵を描いて生きていきたいけれど、自分が描いた絵を誰も買ってくれないから、他の仕事(アルバイトとか会社員とか)で生活費を稼いでいる。

 それが、絵描きとして成功すれば絵を買ってくれる人がいるわけで、その人が支払ってくれたお金で生きていくことができる。

 専業作家として絵を描き、やりたいことをやって生活していくことができる。

 専業作家というのは、ひとつの成功だと。好きで副業をしているわけではない人からすれば、成功であり、達成であり、歓びだと。

 やりたいことをやって生活していけるいうことは幸せなこと。それが叶わない人からすれば「その人生に何の文句があるっていうんだ」と詰め寄りたいくらい羨ましい人生。

 やりたいことやって生きてるんだろ。俺とちがって。

 それだけでじゅうぶんでしょ。贅沢言うなよ。

 みたいに。

 しかし、私は「月と六ペンス」を読んでからそうは考えなくなりました。

 「才能」ってそんなにいいものでしょうか。

 「月と六ペンス」を読み終えたあとの私はこう考えています。

 どんな才能を持って生まれるかを当人は選ぶことはできない。その人生は当人のものであるにもかかわらず。

 特別な才能を持った(あるいは持ってしまった)人たちは、もう普通の生活を送ることはできない。一般的な尺度で測ることのできる「幸福な人生」みたいな基準のない特殊な人生を歩むことになる。本人がどれだけ「普通の人生」を望んでも、必ず才能が彼らを元の世界に引き戻す。

 それって、才能を持っているからといって、それを(幸か不幸か)発揮して生きていくことができていたって、そしてそれが多くの名声や富を手に入れさせたって、

 当人を幸福に導くものではない

 ということではないでしょうか。

 才能と人生の幸福は直結しない。才能は才能として独立して生きている生き物のようなもので、体内に棲んでいるそれがその人を輝かせることもあるが、破壊することだってある。

 多くの「才能」によって私はとても豊かな生活を送っていると思います。

 音楽も、アニメーションや小説。それらがある世界に生きることができて、私は幸福だと思います。それらが私の感性に触れてくれて、ほんとうに嬉しい。

 そしてそれを嬉しいと感じられる自分でいられて嬉しい。少しだけ自分のことが好きになれます。

 人間はこんなにすごいことができるんだ、生きていて良かった、と思う気持ち。

 私はこの本の1番最初の文章を読んだとき、まるで心身に電流が走ったみたいに感じて、すぐに読み進めました。手も震えていたと記憶しています。衝撃ってやつです。バットの真芯でバシッと打たれてしまったわけです。

 それからはただひたすらに読みました。先が知りたくて、彼らがどうなるのか、どうなったのかを知りたくて。

 淀みのない流水のような文章。でも時々胸が痛くなる言葉が刺さる。その度に少し立ち止まって、深呼吸をして、また歩き出す。

 その間「才能ってなんだ」「本物ってなんだ」と考えていました。そしてそれは私自身の心の中で何度も反響し、形を変えていきました。

 どうなるんだろう、私はどう思うんだろう、と。

 そしてそれは、最終的に私をとてもかなしい気持ちにさせました。

 ストリックランドは幸せだったんだろうか。彼を本当に理解した人は、いや、理解「しようとした」人はこの広い世界にいったい何人いたのだろうか。

 彼には才能があったんだ。それは本当のことでしょう。でもそれを外からやいやい言うだけの人たちに対する、私のこの強い嫌悪感は何でしょうか。

 アーティストは素晴らし作品さえ創っていればいい。友達になりたいと思うような人じゃなくたって。そういう気持ちも理解できます。でもアーティストだって生きている血の通ったひとりの人間です。

 私にも「才能があったらなぁ」とため息をつくときがありました。何度もありました。何度も。

 たとえば、文章を書いているとき。推敲をしながら、つまり自分が書いた文章を読み返しながら「もっとうまく気持ちを伝えられたらいいのに」と思うとき。

 私に文章を書く才能があったら。

 でも、才能はそんなに便利なものではないのかもしれません。

 もしかしたら私を内側から喰い殺し、私自身や私の人生を、周りの人たちを破壊する怪物かもしれません。

 あるいは極端な気分屋かもしれない。薄命な、刹那の輝きかもしれない。本当にそばにいてほしいときに限って、もう彼の姿はどこにもないかもしれない。

 私はそんな思いを抱きながら日々を生きるようになりました。文章を書いているときも、誰かを見ているときも、仕事をしているときも。

 もしも私が「あの人と同じような才能」を持っていたとして。

 それって私の人生にとって「いいこと」だろうか。

 私は「才能」に耐えられるだろうか。

 もう一度読みたいと思いつつ、またあの鋭くて壮絶な世界に足を踏み入れることに躊躇している自分がいます。

 でも必ずもう一度読みます。向き合うときがきたときに、必ず。

 と、言いつつ、だからまだ購入には踏み切れていないんですね。。。いや、高いものじゃないんだけど、私に二の足を踏ませているのはそこじゃないことはわかっています。

…ここまで書いて思ったけど、これは推薦できているんでしょうか…?

 でも、個人的には「本の内容にできるだけ触れない」方が、初めて読む人にとっては良いと思っているのでこのまま閉じようと思います。

 もしも、よかったら。

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