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川上弘美「物語が、始まる」は何故グッとくるのか? 第四夜


 全7回に渡って川上弘美「物語が、始まる」の魅力を紹介します。

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第四夜 ずれる世界


 第二夜と第三夜であらすじを追ってまいりました。
 それにしても不思議な話です。
 作中にはしゃべって動く人形(雛型)が出てきますが、言うまでもなく人形というのは普通はそういう振る舞いをしない“モノ”です。人形が動くというのはシチュエーションとしては本来ならホラーの分類にでも入りそうなものですが、これはホラー小説ではありません(見方によってはそういう風にも読めますが)。
 しかし主人公の“私”は、人形がしゃべって動くこと自体は特に何の疑問もなく受け入れます。むしろ当然のこと、と思っているフシさえあります。
 「歩く?」と聞いて雛型が「うん」と答えたときはさすがに一瞬「しまった」と後悔に似た感情が湧いたようですが、それは恐怖ゆえというより「(まさか)知能を持っているとは思っていなかった」という至極あっさりした理由によるものであり、その後「排泄や食事のしつけをするのには楽かもしれない」とすぐに気を取り直しています。
 また、“私”の恋人の本城さんは、三郎の存在を疎ましく思っているものの、その意味でのスタンスは“私”と同じで、三郎が話す・動くという行為自体には疑問を覚えていません。
 「物語が、始まる」は川上弘美の第一作品集の表題作ですが、そもそもで言うと、川上の初期作品の登場人物は、怪異が出てきてもそれを怪異と思わないパーソナリティーの人物が多いのでした。
 川上のデビュー作「神様」(1994)には“くま”が出てきます。人のあだ名とかではなく、あの動物の“くま”です。くまはヒトの言葉を話し、引越し蕎麦を同じ階の住人にふるまったり、ハイキング用のお弁当を作ったりします。
 この作品の“わたし”もくまのそれらの行動を当然のものとして受け入れており、くまに対してフラットに接します。
 現実と非現実の境目が曖昧で、渾然となった状態。
 初期川上作品のそのような特徴が「物語が、始まる」には色濃く出ています。
 最初からどこかが少しずれていて、その“ずれ”が面白い。
 三郎についても“人形”や“ヒトガタ”ではなく、あまり聞き慣れない“雛型”としたところも“ずれ”が為せるワザというか、言葉のチョイスとして絶妙です。
 世界の成り立ちとしてその根幹のどこかがずれているからこそ、“わたし”と本城さんは非現実的な存在である雛型とも容易に交流が出来るのです。
 ただ、“私”と本城さんのずれ具合を比べたとき、その度合いが大きいのはやはり“私”のようです。

歩いていると、私だけが穴に沈み、話しかける本城さんの膝くらいの位置に頭があるようになる、しばらく私は本城さんの膝に向かってあれこれ話しかける、膝は笑ったりのほほんとしたりして、存外普通に会話をかわしてくれる(略)。

P19

 上の状態を簡単な図にするとこんな感じでしょうか。

 先ほどの引用は“私”と本城さんの会話が“ずれ”てしまい、支離滅裂な内容を交わしているときの様子を描写したものです。
 このとき地面を現実と非現実の境界線とした場合、“私”の体の半分以上が非現実にどっぷり浸かっていることになります。
 見えている世界、身を置く次元が異なるので、二人の会話が噛み合わないのも当然です。
 最終的に破局前の二人は「バグだらけの日本語変換ソフトを内蔵したパソコン(本城さん)とそのユーザー(私)」のような関係になってしまうのですが、客観的に見たときに「バグだらけ」なのは、実は“私”の方だったのかもしれません。「膝は笑ったりのほほんとしたりして、存外普通に会話をかわしてくれる」という“私”の所感も、なんだかバグみ●●●で満ちています。
 もともと非現実寄りの人間だから三郎に惹かれたのか(A)、もしくは三郎に入れ込むことで現実からの乖離が進行したのか(B)は「ニワトリが先か、卵が先か」のジレンマに通ずるところがありますが、AとBが互いに影響し作用を及ぼすことによって“私”がより非現実の方へと引き込まれていったのは間違いないでしょう。
 ずれが進行した結果、どこかの時点で“私”は、本城さんの言葉をキャッチするアンテナを失ってしまったのです。

 それではまた明日。


 ↓ 第五夜




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