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バカ殿様

元亀3年(1573年)12月22日、三方ヶ原の合戦で、徳川家康は武田信玄に敗れました。

味方は総崩れとなり、多くの武将が討たれていきます。

この状況を見て、家康は、自身も敵勢に突っ込み、壮絶な最期を遂げようとしました。

周りの家臣が制止するも、全く耳を貸さない家康。

そんな時、高らかな笑い声が起こりました。

「このような時に、笑うのは誰じゃ。」

家康が怒りを露わにして叫ぶと、笑った者は平然とした態度で語り始めました。

「わしは愚か者じゃ。こんなバカ殿に仕えてしまうとは。本当に自分が情けない。」

突然、バカ呼ばわりされた家康は、更に興奮し、

「何?!わしがバカじゃと。それが主君に言う言葉か。」

と怒鳴りましたが、男もこれに言い返します。

「本当の事じゃ。戦場で、さっさと命を投げ出すとは、ここまでバカ殿とは思わなんだ。もはや愛想が尽きたわ。わしは、これにて御暇おいとま頂戴ちょうだいいたしまする。」

「ああ、さっさと去れ。命を惜しむような臆病者は、徳川家の家臣には必要ない。この卑怯者が。」

そんな家康の罵詈雑言にも臆さず、男は言いました。

「では、これまでの忠節の褒美ほうびに、殿のかぶとを頂きたい。」

「なんじゃと。このからの兜を売って、かねにするつもりか?」

「左様。次の仕官先が見つかるまで、金が要りますので。それに殿は、これから死なれるのでございましょう?兜など無くとも良いではありませぬか。」

「現金な奴め。そんなに欲しければくれてやる。」

そう言うと、家康は男に兜を与えてやりました。

すると男は、唐の兜をかぶると、声高に叫び始めます。

「やあやあ我こそは、徳川三河守家康なり。武功欲しくば、我が首、取ってみよ。」

そう叫ぶや否や、男は敵勢の中に突っ込んでいきました。

この時になって、ようやく家康も悟ります。

男は、自分を助ける為に身代わりになったのだと。

その直後、戦場のあちらこちらで、「我こそは徳川家康なり。」の声が響き渡り始めました。

彼らの熱い思いを感じる時、どうして命を粗末にする事が出来るでしょうか。

家康は涙を流しながら、戦場を去ったのでした。

身代わりとなって死んだ男の名は、夏目なつめ吉信よしのぶ

夏目なつめ漱石そうせきの御先祖様です。

静岡県浜松市中区の犀ヶ崖さいががけ資料館の傍には、忠節を讃える「夏目次郎左衛門吉信旌忠碑せいちゅうひ」が立っています。

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