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<第1章><第2章>活動による言語育成の手引き(Handbuch Sprachförderung durch Bewegung)

デュッセルドルフ森の幼稚園から借りて、現在読んでいる本。

BFDが開始できずに暇なので、読んでます。

ハッキリ言ってメチャクチャ面白い。

10章ある内の2章までを読み終えたが、この本のおかげで、自分の実習に対する意識が変わった。




読む前の自分の意識


この本を読む前は、子ども達とドイツ語で話すことに多少は抵抗があった。

何故なら、自分のドイツ語力は(当然のことだが)ネイティブではないから。

大人とドイツ語で話す際は、コチラが言い間違えをしたとて、「あぁ、こういう意味を言いたいのだろうな」と相手側が気を使って理解してくれるし、コチラの理解力に合わせて、相手側が簡単な言葉を使ってくれたり、話すスピードをゆっくりにしてくれたりする。

一方で、子ども達と話す場合。コチラが言い間違えをしたら、子ども達から、「何言ってんの?意味わかんなーい!」って言われたり、「大人なのにそんなことも言えないの?」って言われたりするのではないかと、勝手にコチラ側が不安を妄想してしまう。

また、使える単語が大人と比較すれば、子ども達は少ないので、ある単語が理解できなかった際の「言い換え」や「別の表現」が難しくなる。また、話すスピードだって、子どもだったら自分本位で話すことが多いであろう。

でも、こういうのは、時間は要するだろうが、自分が慣れたらいい話である。自分にとっては、”自分が抱える問題”と比べれば些細過ぎることなのである。


最大の問題


自分が抱える最大の問題は、「子どもの言語育成において、自分の間違ったドイツ語が、子ども達に悪影響を与えるのではないか?」という”恐れ”である。

自分が文法的に間違った発言をしたとして、それを子ども達が真似してしまったらどうしようか?間違った単語を使ってしまったとして、それを子ども達が覚えてしまったらどうしようか?

親の前で子どもが間違ったことを言って、「どうしてそんなことを言うの?」って親から質問された時に、子どもが「だって、キーくんが言ってたよ」なんて答えたら、自分の評価がガタ落ちである。最悪、「あんな奴を先生にしたら子ども達に悪影響が出るから、働くのを辞めてもらおう」なんてことにもなりかねない(ビビりの妄想…笑)。

たかが外国人の分際で考え過ぎのような気もするが、子どもって大人のマネをして成長する部分が多々あるので、なんか気になってしまうのである…


前回の実習との差


そういう気持ちがあったので、前回の実習というのは自分にとっては”都合が良かった”。

殆どが「子ども達との遊び」だったので、言葉によるコミュニケーションは殆ど必要なかった。ジェスチャーや表情など、ノンバーバルなコミュニケーションで子ども達と関係性を築くことが出来ていた。

だが、今回の実習では、おそらく言葉でのコミュニケーションが主体になるだろうなと、先日の「お呼ばれ」の時に感じた。出会った子ども達は、先生に対して「遊ぼう!」と話しかけることなく、自分達で遊んでいたから。先生としての仕事は、子ども達への声掛けが主体となると思う。

まぁ個人的には、「ノンババーバルコミュニケーション」から「バーバルコミュニケーション」へステップアップするチャンスでもあるから、成長するのに大変良い機会だと思うので嬉しいのだが、それと同じくらいの大きさで、不安もあるのが事実なのである。

前回の実習は、「鬼ごっこ、かくれんぼ、サッカー」などの遊びを通じて子ども達の関係性を築けたので、その後の会話において子ども達は自分を信頼して話しかけてくれた。

今回の実習では、おそらく、いきなりドイツ語で会話して、そこから関係性を築いていかなければならないと思う。遊びではなく、「話術」によって、子ども達の信頼を得なければならないので、外国人の自分にとっては大きなハードルだなと感じている(「見た目」というハードルもあるし…)。


この本を読んだ後の心境の変化


①失敗する自分も、子ども達の環境の一部であるという事


失敗してもええじゃないか!こっちは失敗しようと思って失敗してるわけじゃないし、失敗したら改めるという気概も持っている!

そもそも論、移民の多いドイツ。ドイツ社会で生きていくなら、移民の人達のドイツ語に慣れなければなりません!しかもここデュッセルドルフは、日本人が多い地域!そしたら、日本人が話すドイツ語を聞けるというのは、子ども達にとってメリットじゃね!?

「こういうドイツ語を話す人もいるんだ」と子ども達が自分を理解してくれて、それが子どもたち自身の「寛容性の芽生え」になれば嬉しい。

自分という存在は、子ども達が成長する環境を形作っている一部であるわけだから、少なくとも”自分から”は逃げたくないなと思う。子ども達の方から逃げていったら、自分は追いかけないつもり。子ども達に嫌われるまでは、自分をちゃんと出して、子ども達の環境の一部としての誇りを持ち続けたい。


②活動的な子ほど、よく話す


先日訪れた際に、入園して2日目の子どもがいたのだが、あまり活動的ではなかった。慣れてないという部分も大きいのは当然であるが、朝食の時間に先生がその子に質問した時の返答も、「はい」とか「いいえ」とか、長くても「私は~。」っていう1文の長さだった。もちろん年齢的にも年少なのでそれが普通であるとは思うが…

一方、年長の女の子達は「かしまし娘」でしたね。笑

ご飯の時に話しすぎて先生に注意を受ける程…笑

遊んでる様子も、グループになって走り回ったり、広場を大きく使って、あちらこちらで遊んでいました。

ヴィトゲンシュタインでしたっけ?「自分の言語=自分の世界」って感じのことを言ったのは?

やっぱり、年少のその子と年長の子ども達を比べたら、見えてる世界が広いのは、当然ですが、年長の子ども達ですよね。

この経験をしたからこそ、今読んでる本の内容を、実体験を持って深く理解できたなと感じるのです。


③子ども達と共に成長しながら、自分の違いをさらけ出す


自分も言葉を学ぶ最中だし、子ども達も言葉を学ぶ最中。同じ立場である。ならば、仲間同士手を取り合って、良い関係性を築きたい。互いから学ぶことは多いハズ。

子供のお手本だと思えば苦しい。お手本は別にあって、子供と一緒にそのお手本に進んでいるのだと思えばらくだ。子供の理想の標的だと思えば苦しい。理想の標的は彼方にあって、自分も子供の先きに立ってそれへ向かって専心進みつつあるのだと思えばらくだ。

幼稚園雑草(上)p17
「The Actors Studio Interview」と「10の質問」と「10周年」


そして、自分の方が少しは子ども達よりかは、認識できる世界が広いハズ。そして、日本を知っている自分は、普通のドイツ人先生とその点において違いがあり、その違いこそが魅力につながると信じている。



自分が担当するグループは、フロリアンと自分が男性で、後の3名は女性である。もう一つの他のグループにいたっては、全員女性である。そういうところも、違いとして出していけたら良いなと思う。


④言語育成はとてつもなく重要な任務。自分の失敗ではなく、子ども達の成長にフォーカスする。


人は言葉によって、時間を超越できるし、現実にはないことを想像できる。

この本を読んで、言葉の持つ凄さを、ちゃんと言葉にして実感することができた。

子ども達が成長していくうえで、言語育成は避けて通れない分野であることを学んだ。

大人として、森の幼稚園という場所で、それに携われる機会を得られていることにまず有難さを感じる。森の幼稚園は身体的活動が多いので、子ども達も早く言葉を習得していくであろう。

少なくとも自分としては、だんまりすることは避けたい。むやみやたらには話しかけないけど、子ども達から話しかけてきたら、何かしらの文章で返事する。そこから会話を膨らます。

あと、1対1になった時はコチラから積極的に話す。年長さんだったら、過去の事や未来の事とかを話題にして、抽象的思考を養う感じも良さそう。物静かな子どもだったら、色々と質問して(名前とか、好きな食べ物とか)、自己認識を強める方向に持っていても良さげ。

とにかく、自分の失敗にフォーカスするのではなく、目の前にいる子ども達の成長にフォーカスすること。間違ったドイツ語を子ども達が学んだとしても、グループ内の誰かが訂正してくれるでしょう。そこは、メンバーを信用しておきたい。

というか、1人で子ども達と向き合うわけじゃないんだから、自分は自分のままで子ども達と接すれば良い!そのためのチームだし。自分が間違ったことをしたらちゃんと指摘してくれるだろうし、正しいことをしたら褒めてくれるだろうし。チームのメンバーを信頼して、自分は自分のままでいることを貫きたい。


書いてて、結構名言だなと思った☟笑


「自分の失敗ではなく、子ども達の成長にフォーカスする」


是非ともこのモットーを胸に、トラウマを乗り越えていきたい!


学びの要約


・言語能力は実際のコミュニケーションを通じて獲得される。
・言葉によって、「今」「現在」「ここ」という軸から離れたことを想像し、創造することが出来る。
・言葉の獲得には、実際の身体的活動が必要である。
・自己教育とは、「世界に対する自己イメージを作る」こと


2章までで個人的に気になった内容


稚拙な訳と稚拙な意訳であることは、ご了承ください…


①子どもの発達は感覚、行動、感情と思考の統合として理解することが出来る。その統合は、子どもの動作的成長と言語的成長において現れる自立や自律という特徴によって作り出される。



②大人達や他の子ども達との会話における積極的な言葉の使用は、言語的能力の獲得に対して決定的な要因である。



③体や言葉をどんどん上手く扱えるようになることは、自立への道を歩むことである。



④言語の獲得は認知能力の発達と密接に結びついている。言葉によって、具体的な行動をしなくても、思考することが可能になる。言葉は、現実世界における行動から距離を置いた、抽象的で、精神的な事を想像することを可能にする。



⑤もちろん、言葉の獲得は実際の行動や身体的活動が前提である。それどころか、そもそも言葉は身体による運動的プロセスであると言えよう。もし、子ども達の言語習得を支援する機会に取り組むことがあるのであれば、このことを考慮することが大切である。



⑥身体活動、それすなはち、言語活動



⑦行動と言葉は切っても切り離せない関係である



⑧言葉を楽しんだり、真似しようとしたり、無邪気に音を出してみたり…。こういったことは言葉を学ぶ上での良いことである。活動とは、言葉を自分自身で知るプロセスを守ってくれるのだ。



⑨2003年のSanderとSpanierの論文によれば、「子どもの年齢が低いほど、より多くの活動や会話が必要であり、その中で話された言葉を、子ども達が持つ乏しい表現方法、感覚、行動経験と結び付けなければならない」とある。



⑩子ども達の自己教育の可能性を守ることは、昔からずっと大切なことである。しかし、他にも大切なことは、「子ども達が自身の世界に対する興味を維持し続けたり」、「子ども達の好奇心を伸ばしたり」、「世界に対する知識を自分自身で作り上げる様々な機会を子ども達が持てたりすること」に、ちゃんと貢献できる大人の刺激的な付き添いである。この意味において教育とは、歴史上有名な教育者Wilhelm von Humboldtによって、「世界の習得」として理解されている。2005年のMerkelの論文によれば、「自己教育とは、世界に対するイメージを作ることである。それはつまり、自分自身とこの世界に存在する他の人々の影響を受けて、イメージを作ることを意味する」とある。



⑪子ども達はある面においては、活動を通じて物や社会的環境に触れて、それらの法則や規則についての知識を獲得する。その一方で、自身の体を通じて、人格の形成の基礎となる自分自身という人間を経験しているのである。



⑫他の人達、はたまた物体との触れ合いにおいて、子ども達は言語の便利な機能を発見する。それはすなはち、言葉のおかげで、人は現在のこと以外を示すことが出来るということである。言葉は、過去を呼び起こしたり、未来を見ることでさえ出来る。例えば、「昨日ボールで遊んだ(過去)。明日はサイクリングするんだ(未来)。」のように。それは、現在の活動とは無関係であり、抽象的に考えることを可能にしている。



これからは各章ごとにまとめていきたいと思います!


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