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君のスペイン語を忘れないで。〜No te olvides tu castellano 〜

 スマホのカメラロールから、5年ほど前に家族で旅行した隣国アルゼンチン、ブエノスアイレスでの写真を見ていた。確かマイレージを利用した旅行だった。結婚でこちらに来る直前までは、南米大陸に住んでいれば隣国間の移動など容易いものだとタカを括っていた。職場関係で中南米各国に知り合いが散らばっていたし、幼稚園時代からの幼馴染は偶然にもチリに住んでいる。その気にさえなれば、そんな人たちとも簡単に会えるのではないかと思っていた。距離的には日本からよりずっと近いのだからと...。

 実際にこちらに住んでいると、「いつでも行かれる」と思えば近場での旅行のプライオリティは低かった。そこのところは、駐在などで一時的にこちらに暮らされている日本の方とは意識が違う。私にとっての海外旅行といえば、南米大陸の旅よりは日本。2、3年に一度の里帰りがどんな時も一大行事だった。この年(2017年)のマイレージを利用しての旅行先は、度々仕事で訪れた経験のあるオット以外が知らない、ブエノスアイレスに、偶々白羽の矢が立ったというわけだ。

サンパウロからブエノスアイレスまでは3時間ほどの空の旅。(これは帰りのフライトの機窓から。)
市の中心部に聳える歴史的建造物、市のアイコンであるオベリスク。7月9日大通りAvenida 9 de Julioという、独立記念日の名前の付いた大通りにある。
高さは68mほど。
ボカ地区にあるアルゼンチンタンゴ発祥の地、カミニート。caminitoはcamino(道)より小さな、小径という意味。
テラスからお顔を出されているのは、アルゼンチン人でローマ教皇となられた、Papa フランシスコ。
アルゼンチンといえばマラドーナ⁉︎触ってはいけません。。
カーサホサーダ(ピンクハウス)と呼ばれる大統領府。政党のイメージカラーとしてこの色が選ばれたそうだが、その昔は塗料の種類が少なく、石灰と牛の血を混ぜて塗料としていたとか。今の塗料はもちろんオリジナルではない。
コロン劇場(Teatro Colón)
重厚で豪華な内装。
思わず座り心地をチェックしたくなる。


Don’t cry for me, Argentina〜♪とマドンナが歌った、元アルゼンチン大統領夫人、エバ・ペロンが眠るレコレータ墓地。迷路のような大きな墓地だが、ガイドさんが丁寧な説明付きで案内してくれる。
国立美術館
妙に感じが似ていた☺︎
美しい日本庭園(Jardín Japonés)は、1967年の皇太子ご夫妻のご訪亜に合わせて造成されたそう。
アルゼンチンといえば肉。アサード(BBQ)。ブラジルのシュラスコとはまた違った豪快さがある。
右下のチミチュリソースはコリアンダー(パクチー)やオレガノ入りで、肉をさっぱりといただける。左上はブラジルのシュラスコでもお馴染みの、ヴィナグレッチソース。
これが噂の⁉︎巨大ミラネーゼ。(ブラジルではミラネーザ、アルゼンチンではミラネッサ。)本場ミラノでは「コトレッタ」と言うそう。牛肉を薄くたたいて衣を付けて、カリッと揚げ焼きしたもの。銀のプレートいっぱいの大迫力。これで3人前?くらいか。サンパウロでも流石にこの大きさのカツレツは見たことがなかったかも。。ホテル前で待機していたタクシーの運転手さんオススメのレストランにて。
プエルトマデロの夜は更けて。再開発されたオシャレな埠頭エリアの赤煉瓦の建物には、レストランが軒を連ねる。尚、このエリアからは高速のフェリーが出ており、ラプラタ川を渡り、隣国ウルグアイのコロニア・デル・サクラメントに行くことが出来る。乗船時間は1時間くらい。


***


 4泊5日の慌ただしい旅だった。昔の職場のつてで懐かしい方たちと連絡を取ることは出来ただろうが、私が退職して20年以上も経っており、敢えてそうはしなかった。今回その時の旅を懐かしんでいたら、あるアルゼンチン人男性のことをふと思い出した。

 あれは80年代終わりの職場にて。その方の年は35-40歳くらい。私が23、4歳のうら若き?乙女だった頃、アルゼンチンの現地法人から出張で日本にいらして、数日私の職場で仕事をされていた。転職で現法に入社されたばかりの方で、その時が初めての来日だった。システムエンジアの方だった。同僚何人かで来日されたと記憶しているが、ある日この方だけぽっかりフリーとなる時間があり、私の上司から日比谷のショールームをご案内するようにとの指令が下った。

 よく知らない外国人のおじさまを1人でご案内。。一瞬怯んだが仕事だから仕方がない。挨拶が済むと、(コミュニケーションは、お互いに拙い英語と、私のさらにどうしようもないスペイン語で為されていた)その方が私に一番に仰ったのは

「君は昼間に働いて、夜に学校に通う学生さんだよね!」

だった。制服もない職場で、OLらしからぬ服装ではあったが(チノパンの裾を折り返し、カーディガン、黒い紐靴などを履いて髪の毛は後ろで括っていた)、それはあんまりだ。一応訂正はしたが、どうやら信じてもらえていない様子だった。やれやれ。

 意思の疎通が完璧とは言えない状況だったが、なんとかショールームのご案内は終わった。ご案内をしたというか、エンジニアの方に私の拙い説明などは必要はなかった。満足された様子で、行きとは逆向きの地下鉄に乗り、職場の最寄り駅に着いた。さぁ、戻りましょうという時にその方はこう仰った。

「ファストフード店でpapa fritaを食べようよ。僕が奢るから。」

  随分前の話で、正確な言葉は覚えていないが、大体こういうことをスペイン語で仰っていた。パパフリッタとはフライドポテトのこと。

 ご厚意はありがたく思ったが、本音はさっさと帰社したかった。帰りが遅くなればなるほど仕事は溜まり残業となる。当たり前の話である。一旦はお断りしたが、あまり熱意に負けてしまった。少しならまぁ良いか。一緒にカウンターに並んだ。

「 ¡ Sumo de naranja ,por favor  ! 」スーモデナランハ=オレンジジュースをお願い!)

とスペイン語でオーダーされ、あくまでマイペースなおじさまが微笑ましかった。随分前のことで、その時にどんな話をしたかは良く覚えてはいないが、

 「駅にあったあの箱はvending machine (自販機)だよね?」

と仰ったことが印象深かった。(実際はコインロッカーだったのだが。)日本では当たり前にある自販機も、治安に問題がある国ではそうもいかないのだなぁと、まだ見ぬ遠い国に想いを馳せた。

 仕事が順調に進み、その方とご一行が帰国する日となった。一人でパチパチとタイプライターのキーを打つその方に、ご挨拶をした。ひとことふたこと言葉を交わすと、その方はおもむろにご自分の名刺を取り出し、白紙の裏面にサラサラと達筆な字で何やら書きだした。手渡されたその名刺にはこう書いてあった。

Kyoko,
No te olvides tu castellano.(Kyoko、君のスペイン語を忘れないで。)

 今思い出しても改めて胸がいっぱいになった。職場の研修でスペイン語を習い始めたばかりの私に、極力スペイン語で話しかけて下さったのも、きっとお気遣いだった。あれから30年以上の年月が経ち、私はポルトガル語圏の国に住んでいる。学んだスペイン語も殆ど忘れてしまっているが、この言葉とあの小さな名刺の重みは決して忘れない。もしかしてあの名刺をこちらに持って来たかな、と探すも残念ながら見つからなかった。

 ジャン・マテウさんが今も何処かで、お元気でお幸せであられますように。。


【本日のおすすめミュージック】

 80年代の終わりか90年代始めごろ、ラジオのFM局で盛んに流れていて良く聴いた、思い出の曲です。ベットミドラー From a distance 



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