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陽性のあとで③

予後不良。通常であれば1、2週間のうちに戻るらしい体調は、変わらずの出血と腹痛により市販の痛み止めを服用する日が続きました。別の疾患を恐れ合間に病院へ行くことも考えましたが、心の中で「母である自分が受けるべき痛み」と唱えるようにして、医師が設定した診察日をひたすら待ちました。「何かあれば来るように」とはもちろん言われていました。しかし、何事もない日常を送ることこそが、痛む身体以上に辛く、病院に行くこと自体も辛く思える時期でした。


流産後の診察にて

感情の全種類を使い切ったような流産経験、生命を授かることが叶わず自然流産となった17日後、再び診察のために病院を訪れました。
出血の様子などを問診時に伝え、内診の結果、子宮自体に問題はなく残留組織による出血に関しても排出がゆっくりなだけで、じきに収まるとのこと。そしてその後、今回の流産とは直結しないものの二人目を望む身には不安材料となる診断結果を一つだけ伝えられました。
「左の卵管が癒着気味です」
言われてすぐに思い出したのですが、10年ほど前に別の医院で受けた婦人科検診にて、大きな問題ではないとされながら同様の診断を受けたことがありました。当時の自分は結婚はおろか出産に対して、まるで宝くじが当たるような遠い世界の出来事に感じていたため、案じることなく聞き流したのです。
今回もあくまで”癒着気味”との診断、治療等はせずに経過観察で問題ないと言われました。第二子を望む上で卵管が片方不能でも大丈夫なものかとやや心配になりましたが、この時点では心身消耗していたこともあり「こうして受胎自体はできていることだし、医師の言う通りきっと問題はないのだろう。」そう考えるに留めました。さらに医師から「この後しばらく出血が続くかもしれないが、早ければ翌月から生理が戻り、希望ならば一度の生理を見送った時点で妊娠へ向かいましょう」と言われたことで妊娠を望んでも良いとのとお墨付きをいただいたように、少しだけ心が軽くなりました。
すでに40歳の母体では万全を期す時間的余裕がなかったものと思いますが、何ヶ月も空けなくてはと思い込んでいた私はその時、近く迎えるであろう妊活の再開を励みにしようと素直に思えました。

流産のおわり

穏やかに収束を迎えると予想した流産経験はそこからもうしばらく続き、三週間後にさらなる突然の大量出血とともに、ようやく幕を引きました。
夜中に突如起こった流れるような出血。異変に気づきトイレに駆け込んだものの控えめに言って惨事でした。痛みはありません。そのサラサラと出続ける出血量に貧血を懸念し、すぐに横になりましたが数時間経っても産後初日のような多量の出血が続き、朝一番で病院へ行きました。
「残った組織片の最後の塊が降りてきたものと思われます」との診断でした。特に治療はなしです。自然のことゆえに仕方ないのでしょうが、こうも大変なことが起こり続ける人間の生殖活動、特に自らの持つ女性側の身体構造に対して、ほとほと疲弊したという感想だったと思います。

そして、辛い流産診断から1ヶ月以上ものあいだ続いた出血は最後に特大出血を起こしたその2日後、ピタッとなくなるのでした。
感情を乗り越えることはできませんでしたが、何の心の準備もしていなかった自分と正面から向き合った出来事でした。


話の角度が”不妊治療”という本題に沿わない気もしましたが、自分にとって不妊治療の扉を叩くきっかけとなった流産体験を③と三部に分けて記させていただきました。お読みいただいた方の何か少しでも心を動かす動力となれば、烏滸がましくも嬉しい限りです。この先本題に入る予定ですので是非、またお越しくださいませ。
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