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第6話 難波碕の巻

 神武東征の旅 第6話 難波碕なにわのみさきの巻

その年の2月11日皇軍はついに東へ向かい、3月10日に河内国かわちのくに 草香村くさかのむら青雲あおくも白肩之津しらかたのつに到着した。

   

その時の様子を、

舳艫じくろ相接して(舟の船首と船尾が触れ合うくらい次から次へ)進んだ。ちょうど皇軍の船団が難波碕なにわのみさきに着かれるころ、潮の非常に速いのに出会った。そこでそこを名付けて浪速国なみはやのくにといい、また浪花なみはなともいう。いま難波なにわというのは、それが訛ったものである。

日本書紀Ⅰ 中公クラシックス

舳艫じくろ相つぎ、まさに難波碕なにはのみさきに着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。よって名付けて浪速国なみはやのくにとした。また浪花なみはなともいう。今難波なにわというのはなまったものである。

全現代語訳 日本書紀 宇治谷孟 講談社文庫

と記します。

「古事記」は浪速国なみはやのくにの由来について記述はありません。

   到着したのが草香村くさかのむら白肩之津しらかたのつ。〝雲の肩津〟と瑞祥表現が使われているので、ピンポイントでここという場所はわかりませんが、「津」は港。草香村くさかのむらは古くからの地名で現在の東大阪市日下町くさかちょうあたりです。

   上の地図を見ていただくとわかりますが、赤丸の場所(東大阪市日下町)までもちろん今は船で行くことはできません。

    縄文海進じょうもんかいしんで海面が上昇し、縄文時代、大阪は上町台地が半島のように突き出ているだけで大半が河内湾かわちわんと呼ばれる海でした。

 時は流れて、淀川よどがわ大和川やまとがわが運んてくる土砂の堆積によって、やがて河内潟かわちがたと呼ばれる時代になります。

上町台地うえまちだいちが土砂の堆積で徐々に北へ伸び、やがて河内潟かわちがたは淡水の河内湖かわちこになります。

 注目すべきは日本書紀が記す「難波碕なにわのみさきに着かれるころ潮の非常に速いのに出会った」あるいは「まさに難波碕なにはのみさきに着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた」という個所です。上の図の河内潟の時代なら潮の干満のタイミングを見計らって難波碕をスイスイ通過できたわけです。

   河内潟が淡水の河内湖になるのは今からおおよそ2000年前。紀元前後にはそのようになったと考えられています。淡水湖になった後は日本書紀の記す現象に遭遇することは出来ません。

河内湖の時代 大阪歴史資料館展示パネル

   地質調査や遺跡の発掘で詳しく知ることができるようになったのは昭和以降です。

  日本書紀に語源が書いてあるのに、 明治時代に、難波なにわの語源を、大阪湾には浪の速いところはなく、古代に魚・菜など食物全般を「な」と呼んでいて大阪湾は魚(な)がたくさん獲れるから、魚(な)の庭で「なにわ」と呼ばれるようになったのであろうという説が唱えられます。

  ありがたい事に今の私たちは、かつて大阪に「ザーザーうねる波を表す文字〝なみ〟」がおこる地形が存在したことを知ることができます。上町台地の北端が閉じられるまで。つまり紀元前の事です。
 
 河内潟かわちがたの出口がふさがって河内湖かわちこになった後、大和川の水は出口を失い河川が度々氾濫します。そうした状況を憂い、仁徳天皇の御代に難波の堀江なにわのほりえを切り開いて水の出口がつくられました。5世紀はじめの事です。その結果干拓地が広がり今の大阪平野ができました。

 日本書紀が編纂されたのは8世紀はじめ。その頃には河内湖もほぼ姿を消していたようです。なのになぜ日本書紀の編纂者は難波碕なにわのみさきの速い潮流を知っていたのでしょう? 編纂時から700年以上前の現象を描けると言うことは、そこには何らかの伝承や記録があったと考えるのが自然だと思いませんか?

 〝記紀〟の古代記述の信憑性を問うとき、初期天皇の異様に長い寿命や事績の少ない欠史八代、それと神武天皇橿原宮即位紀元前660年に対する疑義があると思います。私も即位年については懐疑的です。「青雲あおくも白肩之津しらかたのつ」が瑞祥表現であるように、辛酉かのととりの年に天命があらたまるという中国の辛酉革命しんゆうかくめい思想と符合させ、記紀編纂当時に正確な記録が残る推古天皇すいこてんのう9年の辛酉かのととらの年から逆算して導き出されたという説を支持するからです。

   しかし年数に作為があるからといって出来事がすべて絵空事だとは思っていません。今回の難波碕なにわのみさきの潮流もその一例です。一つ一つ丁寧に見ていけば、自ずと見えてくるものがあるんじゃないかと思っているんですよね。

 次回は孔舎衛坂くさえのさかの戦いです。お楽しみに〜!


【参考】
 今回登場した「難波碕なにわのみさき」。大阪に馴染みの薄い方は〝難波なんば〟と読むんじゃないの? と思われた方がいるかもしれません。インバウンドで賑わう大阪ミナミの繁華街は、そう「なんば」です。ややこしいですけど、道頓堀どうとんぼりなどミナミの繁華街がある場所の地名が「なんば」で、大阪全体として〝難波〟という漢字を使う場合は「なにわ」と読みます。なので今回書いた「難波碕なにわのみさき」も、今のミナミの繁華街あたりにあったわけではありません(笑)。 それと「浪速」も「浪花」も今は「なにわ」と読みます。実際にある「大阪市浪速区おおさかしなにわく」とか、むかし「浪花なにわ恋しぐれ」という歌もありました。





 










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