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君たちより面白くない作品がたくさんありますので、その作者たちがどのように制作しているか勉強していってください。

中山和也展 1週目レポート

文 : 長嶺慶治郎
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KIKA Galleryでは中山和也展「写真を使った展覧会ってどう思う?~ギャラリストの新規採用~」が始まった。そして、作品である新規採用されたギャラリストが僕で、これまでのギャラリストに習い、展覧会の紹介や批評をしようと思う。

来週、再来週と展覧会の会期が進んでいくと書くことになっていくのかもしれないが、今回の中山の展覧会で何が起きているのか具体的な内容を書くのは今週、ここでは避けることにする。それは僕自身、作品の渦中にいるため変な自意識が生まれているためか、そもそも何もわかっていなかったからかもしれない という不安がある(しかし、ギャラリストとして作品を見ることと、観客として作品を見ることに違いがあるのかもわからないし、僕はギャラリストについてよく知らなかった)。したがって、今回のテキストでは1週目を過ごす中で出会った場面を思い返しながら中山を追いかけていきたい。

展覧会初日の朝、ギャラリストとしてはあり得ないが、僕が遅刻して着き、中山とコーヒーを飲んでから搬入を始めた。中山はコーヒーを指差してアロンジェじゃない?と言っていた。中山の作品を知っている人で、空間に中山が何かモノを設置する場面に出会ったことがある人はとても少ないのではないかと思う。話し合いの中で設置場所の候補は3箇所あり、中山はその中でも最も作品らしく見えない場所、これが作品ですと主張しない場所を選んで設置した。そして、普通なら水平器を使うところ、中山は白く塗られた壁面に、少し浮き上がった板同士の溝(薄い線があるだけ)を使い垂直らしきものをとって、まるでキャプションのように設置した。中山のそうした作品設置に対する意識は、モノとしての作品の存在を緩やかにしようとするためだろう。そして比喩やイメージではなく作品を直接、空間や建築に接続させ、またその建築は町にも接続していて、部分と全体が一瞬で現実として迫ってくる。それは装置のようなものかもしれない。もし、それがわざとらしい、わかりやすい繋がりだと、ただの比喩やイメージになってしまう。そんな単純な図解は全く作品ではないと中山が言っているのを何度も聞いてきた。

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中山が書いたテキストを参照したい。


丁寧なジョギング、入念なストレッチ、率先してのスターティングブロックの準備、先輩への気配り、腕の振りや腰の切れなど細かな走りの確認、その都度のグラウンド整備など、見過ごされがちな世界が、スターの新世界創作と同時に巻き起こっていた。澤木啓祐氏の言葉を聞いてすぐに意味を飲み込めずに軽く流し、未知の世界に飛び込みたいと練習に没頭していたが、入念に丁寧に練習する大学生に目がいった。遅い選手と言われていた大学生の動きを目の当たりにすると、新世界が増産されるどころではない衝撃が走った。いつも自分はどこに向かって走っているのか。たまたま未知の世界に飛び込む程度のいつもの世界の奥に必ずある新世界にいくことが楽しいことなのか、重要なことなのか、と。

関連作品:「追い風に乗ってねらえ世界新9秒78」(2001年)

絶対にやってくるあからさまな新世界はもう退屈で仕方ないし、絶対にくるとわかっていることを作品としてやることに何の意味があるのか、と。美術館やギャラリーも、スターやスター候補たちが新世界を日々、増産している場所だ。今回もこれまでもそうした場所で中山は、丁寧に走る準備をし周囲を観察するように、細やかに板同士の溝などを使いつつ周囲に気を配り、隠されたメインストリートへ緩やかに誘導しようとしてきた。競技場にはじめから新記録を見に行くように展覧会に行くのでは何も提供されない、ただの確認でしかない。放り出されたと感じて困惑している観客も実際いるかもしれない。その理由の一つに、象徴的な要素がないことが挙げられる。しかし、もし象徴的な要素があれば、そこが一見ゴールに見えてしまい、作品は回収されてその先にはいけない。

象徴的なイメージは使わないが、中山の作品はモノではなくコンセプトだと言い切ることはできない。例えば、コンセプチュアルアートに見られる観念優先の、アイディアを実行するだけで、それで完成といった態度ではないし、何が起きても構わないというわけではない。今回の展覧会でも中山が「全て現実だ」と言っているのを何度か耳にした。展示物を発端に、具体的に現実で作品が広がっている。なにが、かは来週以降にも書いて行きたい。しかし、僕は今回、観客でもアーティストでもなく、そもそもギャラリストとして事前に今回の新作の話をもっともっと聞いておかなければいけなかった。

力が及ばず情けないが、ハンス・ゲオルグ・ガダマーのテキストを載せてみるのもいいかと思えた。

「現代の技術的な複製に惑わされて、初めて人類文化の偉大な建築物を目の前にしたとき、私たちはある種の失望感を覚えることがある。慣れ親しんだ写真による複製では、「絵画的」に見えないのだ。実はこの失望感は、イメージとしての建築物の純粋な芸術性を超えて、建築芸術としてのアプローチが必要であることを示している。そのためには、実際に建物の中に入って、中も外も歩き回らなければならない。」

ハンス・ゲオルグ・ガダマー
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(このテキストのタイトルも「君たちより面白くない作品がたくさんありますので、その作者たちがどのように制作しているか勉強していってください」より引用)


長嶺慶治郎(ながみね・けいじろう)
アーティスト。京都芸術大学(旧:京都造形芸術大学)情報デザイン学科卒業後、パリ国立高等美術学校修士課程修了。

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