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大好きな記事まとめ

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また読みたい大好きな記事をまとめました。
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2023年8月の記事一覧

「想い」のないところにデザインはない

日常生活の中で、物事を哲学的な視点で考察した経験はありますか?私たちが日常生活を通じて繰り返すさまざまな行動や選択、一日を始めるコーヒーの入れ方や出勤時の服装選び、夕食のメニュー構成など、これらの日常の細部にも、実は哲学的な背景や考え方が深く関与しています。皆さんは、このような日常の中での自らの行動や選択が、どのような哲学的要素や価値観に基づいているのかを意識的に考えたことがありますか? 例えば、私たちが毎日手にする家電製品やアクセサリー、さらには選んだ服装にも、機能やデザ

夏はずうっとそこにいて、私たちの夢を覗いたり朝の号令をかけたりしている。そう思いたい。

ふたりのタルコフスキーがいた、・・・家を捨てた父と、父の帰りを待つ息子

博多の書店「丸善」の映画本コーナーで偶然に見つけた本;ロシアの詩人アルセーニィ・タルコフスキーの詩集「白い、白い日」 でも、映画のコーナーになぜ詩集が置いてあるのか? 理由は、この詩人が、旧ソビエトの映画監督アンドレイ・タルコフスキーの実父親であったからだと思います。 タルコフスキーが旧ソビエト時代に作った作品5本のうち「鏡」と「ストーカー」には、この父親の詩がよく引用朗読されており、特に「ストーカー」で引用されていた詩には印象深いものがありました。 160分近くあるこ

「まつもtoなかい」出演の吉永小百合から学ぶ品とは?情(人を先にする心)と距離感

1.吉永小百合の品①情(人を先にする心)  吉永小百合の「まつもto なかい」を見て、彼女の品の根本に(薄い)情「人を先にする心」があると感じた。  この言葉は、もともと私の大好きな上方落語の桂 枝雀師匠の「薄い情」の事。「薄い情」は「薄情」に誤解されそうなので、この記事では単に情「人を先にする心」と明記した。  枝雀師匠の「薄い情」は落語の登場人物の情についての話だが「厚い情」より「薄い情」を上等とする。なぜ落語?と思われるかと思うが、大げさな表現を嫌う控えめな日本文化

「紙の動物園」ケン・リュウ〜異邦人の母

ケン・リュウの短編集を読んだ。 表題作「紙の動物園」の登場人物である中国人の母親と、アメリカ人の父親との間に生まれた息子との関係が、まるで近い将来の自分と息子の光景のような気がして居たたまれず、胸が詰まった。 幼い息子のために、とっておいたクリスマス・ギフトの包装紙で、母は折り紙を折る。 中国の折り紙で有名な村の出身だった母の折り紙は特別で、母の手で命を吹き込まれた紙の動物たちは、息子の傍らを生き生きと飛び跳ね動き回り、特に紙の虎 老虎は相棒として長い間共に過ごした。 し

きく「All I Have」「That's the Easy Part」Beth Nielsen Chapman(1990)

【SSW(アメリカ)】 スザンヌ・ヴェガ、そして、ベス・ニールセン・チャップマンを聴いて シンガーソングライター(女性)が好きになったんだろう。 日本のは ? 音楽をよく聴くようになってからは日本離れしちゃったんだね。 しかし、なんのきっかけで このCDをレンタルしたか。 このころ(1990)は、 個人的に、ジャズ(ハード・バップ)を聴いていたのだが。 MTVという音楽番組だったのかもしれないが、記憶にない。 アルバムの5曲目(動画上)と10曲目(動画下)を良く聴

朝6時、夏スープを作りながら・・・君たちはどう生きるか。

こんにちは、ぷるるです。 我が家では9日より、少し早めのお盆休みが始まりました。 窓を開ければ、強すぎる日差しが肌を焼きます。まだ6時なのに・・・ だから私はこう思ったんです。 「よし、パチョるか!」 パチョるとは、「スペインのスープ、ガスパチョを作るぜ!」の略語です。 まあこの言葉を使ってるのは、世界で私一人でしょうけど。 以前も書きましたが、私はちょっと酸味の効いた、この冷製スープが大好き! 簡単なので、夏になるとよく作って飲んでます。 私とガスパチョの出会い

マイ・ライフ・サイエンス(9)「ダーウィンとミミズ」

 農家の方はミミズを大切にしているのだと、ある日父が教えてくれたことがありました。何故そうした話になったのかは覚えてはいませんが、私が小学二年生だったころです。  雨上がりの道の端などでうねうねしているミミズがいると気持ち悪いなと思っていた程度で、何故大切かなどこれっぽっちも考えたことなどありませんでしたが、その父の断定的な言葉はずっと脳裏に焼きついたままでした。  そして、チャールズ・ダーウィン。彼とミミズとの関係は後ほどということで…。  さて、「ダーウィンが『種の起源』

8月15日の詩

8月15日。 この日を〈終戦〉〈敗戦〉〈休戦〉〈停戦〉何と表現しようが、満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争へと拡大した15年間もの戦争が、ついに終わった日であることに変わりはありません。 この日、正午ちょうどに昭和天皇による〈玉音放送〉があり、多くの人たちが、その瞬間の絶望、憤慨、茫然自失やひそかな歓喜などについて語っています。 けれども意外に少ないのは、運命の激変を報らされた人々が、それから数時間後、どのようにして夜を迎えたか、という記録です。 私が知る限りでも

お友だちは、ユーレイ

母の生家は霊園の中にあった。 其処には祖父や祖母の墓もあり、幼い頃はお盆の時期になると家族で墓参りに訪れていた。 病弱だった夫と六人の子供を抱え、祖母は生活のために霊園管理の職を得て、住み込みといういうのだろうか、一家は霊園の中に管理所も兼ねて建てられた借家に住んでいた。 霊園のある山は街の中心部に位置しており、中腹にあった霊園からは美術館や市立図書館、デパートにも徒歩で行けたので「自分は都会育ちだ」と母は胸を張っていた。 全国でも街の真ん中に里山があるというのは珍しいよう