8月15日の詩
8月15日。
この日を〈終戦〉〈敗戦〉〈休戦〉〈停戦〉何と表現しようが、満州事変に始まり、日中戦争、太平洋戦争へと拡大した15年間もの戦争が、ついに終わった日であることに変わりはありません。
この日、正午ちょうどに昭和天皇による〈玉音放送〉があり、多くの人たちが、その瞬間の絶望、憤慨、茫然自失やひそかな歓喜などについて語っています。
けれども意外に少ないのは、運命の激変を報らされた人々が、それから数時間後、どのようにして夜を迎えたか、という記録です。
私が知る限りでも、その夜についての回想は数えるほどであり、それだけにより強く印象に残っている、ある人のこんな話があります。
◇◇◇
その人は当時まだ十代で、所用のため、午後から隣街へ出掛けていました。
隣街とはいえ山ひとつを越えねばならず、行き来には時間がかかります。
用を済ませて帰路に着く頃には日もとうに暮れ、真っ暗な山道を一人黙々と歩いたそうです。
そうして、生い繁った木々の間を抜け出、ようやく街が見渡せる場所に立った時、思わず足がすくみました。
眼下に、光の海が広がっていたからです。
現代の私たちからすれば信じられないことながら、その人が高台から街明かりを目にしたのは、それが生まれて初めてでした。
それまでの日々は、日本全土で〈灯火管制〉が行われており、月夜でもなければ、街は夜の闇に沈んだからです。
この〈灯火管制〉は“夜間の空襲を避けるため”に1938年から実施され、上空からの目印とならぬよう、対象は煙草の火にまで及びました。
商店のショーウィンドウや街灯、軍需工場、一般家庭の区別なしに、電灯は消され、覆われ、上空に少しの光も漏らさぬように徹底されました。
そうして、人々は闇の中や目張りされた窓の内側で、じっと息を殺していたのです。
けれども8月15日の夜、街にはいっせいに灯りが点りました。
もう夜間の敵機襲来に怯え、光を気にする必要は無くなったのです。
まばゆい灯りのきらめく街を見下ろしながら、その人は初めて、ああ、戦争は終わった、と痛感したそうです。
生涯で、これほど美しい光景を見ることは、もう二度とないだろうとも。
◇◇◇
私はこの話を一篇の詩そのものだと感じますし、同時に、戦争の一側面を伝える貴重な体験談だとも思います。
戦時中、前線で戦った人々について語られることは多いものの、後方の“銃後”を必死に生きた人々や、各人の命がけの戦いについて知る機会は、それほど多くありません。
だからこそ、国同士の争いで日常が破壊される恐ろしさを伝える話は、激戦地でのルポタージュに劣らない価値があるように思うのです。
たとえば、戦争の終わった年にちょうど20歳だった一人の女性。
この人は後に有名な詩人になり、“みんな生きるか餓死するかの土壇場”の中、若き日を過ごさなければならなかった“無念さ”を、詩として昇華させました。
◇◇◇
わたしが一番きれいだったとき
茨木のり子
わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした
わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった
わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった
わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った
わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた
わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった
わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった
だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
ね
◇◇◇
戦争という苛烈な状況下を、様々な場所で生き抜き、生き延びた人たちがいてくれたからこそ、いま自分もここにこうしていられることに、今日あらためて思いを馳せています。
そして、“今”が“新たな戦前”にならず、“戦後”がずっと続くことを、心から願います。
この美しい詩の作者のように。
◇◇◇
夕焼け
高田敏子
夕焼けは
ばら色
世界が平和なら
どこの国から見ても
どこの町から見ても
夕焼けは
ばら色
夕焼けが
火の色に
血の色に
見えることなど
ありませんように
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