見出し画像

為政者と殺し文句

民の心を掴む為政者は、言葉が巧い。

特に危機下の混乱の最中では、リーダーの言葉に特段の重みが宿る。どこにも解のない状況では、民に伝えるべき事を正しく伝え、伝えるべきでない事は内にしまい、無闇に不安を煽らず、勇気づけ、行動を後押しする。それが正しかったかどうかは、時が経たないと誰にもわからない、そういう状況であっても、だ。これは政治に限らず、企業や特定の共同体においても同じだろう。キングダムに描かれているような遥かな古代から、2020年を迎えても混迷を極める現代まで、言葉の力は根本的に変わっていないのかもしれない。


さて、家に籠っていると、普段触っていなかった箱などをやたら開けてみている。埃の中から出てきたのが、いつだったか通りすがりの古本屋(どこの街かも忘れた)の店頭で手に取った『殺し文句の研究』という一冊。裏表紙に¥100 のシールが残っている。発行は昭和六十年、読売新聞社から。昭和五十七四月から五十九年十二月に読売新聞水曜夕刊の連載コラム「殺し文句の研究」に掲載された内容を収録した本のようだ。作家や評論家、歴史学者たちがそれぞれ感銘を受けた「殺し文句」を端的に紹介している。じつに読み易い。

画像1

パラパラと読み進めていると、ひとつ印象的なものがあったので紹介したい。池井優さんという歴史学者の方がチョイスした「殺し文句」だ。


画像2

帰りには、他人がどうであろうとも我が輩が第一に横浜に出迎える

日露戦争の講和会議のためポーツマスに出発する当時の外務大臣小村寿太郎に、元老の伊藤博文がかけた言葉だという。

アメリカの仲介のもと戦勝国の体面は保たれたものの、数多の人命が失われ莫大な軍事費をつぎ込んで国民に耐乏生活を強いながら戦争賠償金の獲得ができないことを知っていた面々は、出発時に日の丸の旗を振りながら歓喜して見送る国民の世論が、帰国時にはまったく別のものになることを知っていた。(現に日比谷焼打事件などにつながった)

無論、小村自身も重々承知の上で、重責を背負い発とうとしていた。そんな時にかけられた伊藤博文の言葉が、小村にとって、何よりの殺し文句になったと記されている。

君が出発の日は見送り人が山のようだろうから、我が輩は失敬するよ。そのかわり帰りには、他人がどうであろうとも我が輩が第一に横浜に出迎える


いまとなっては事実なのか知る由もない。もとは伊藤自身が課された任を辞退し、小村が「貧乏くじ」を引かされたという説もある。

それでもなお、人の心を掴み、行動を後押しする言葉の要素がこの短文に凝縮されている気がした。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?