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創作ショート『動物園的。』其の四  きみはくじらをみたか

■MONOがお届けするちょっと不思議なショートストーリーズ。日々の生活のすきま時間に、ひとさじからめてみてください。
スマホを忘れた道郎が、電車の中から見つけたものは・・。

【鯨――哺乳類クジラ目。またはクジラ偶蹄目の鯨凹歯類の水生動物の総称。体調4メートル前後のものをさす】

 神さま。
 道郎は祈るような気持ちで上着のポケットに手をいれる。
 リュックの中もさんざん調べた。
 やっぱりない。
 時を巻き戻す。地下のホームの急行電車に飛び乗った。階段をおりた。改札をぬけ、短い階段をおりてのぼって雑踏をぬけ、スイカで改札をぬけて、ショッピングモールの中をぬけた奥の狭い地下通路をぬけ、占いブースのそばをぬけてエレベーターで地上に出る。喫煙ブースのそばを通り大きい通りにでて、ビルの地下の洋食屋の看板を見る。階段を逆にもどって、木のドアを開いた奥ののれんの裏の狭いロッカールーム。
 道郎が着替えていると、先輩がやってきた。道郎のロッカーが開いたままだと、先輩のロッカーが開けられない。何かいわれる前にと、中からリュックを取りすぐに閉めた。あのときだ。
 ロッカーにスマホをいれっぱなしで、出てきてしまった。よし店に連絡しようとポケットをさぐり、あまりのばかばかしさに頭を抱えた。だからスマホがないんだってば。かといって今さら戻る気になれない。あんなに走ってこの急行に乗ったのだ。一日ぐらいなんとかなる。明日の遅番まで我慢すりゃいい。久しぶりにのんびり電車に乗ってみるか。
 見まわせば、乗客のほぼ八割がスマホに目をおとしている。次の駅まで席は空きそうにない。車内ビジョンで最寄り駅の店屋のCMを二巡みたところで、すっかり手持ち無沙汰になってしまった。
 リュックの中にあるのは、経済の講義で買わされた『マクロ経済学からの新しい古典派』という分厚い本だけで、持ち歩けばいつか読むと信じて、一ページも開かないまま10日以上持ち運んでいる。今こそ開くべきなのだろうが、まったくその気にならない。
 では、ふだん考えないことを考えようと思いつく。たとえば世界経済のゆくえとか、国際平和のための画期的アイデアとか、ツバルを救う方法とか。ファーストコンタクトのときの言語。コンビニ弁当を画期的にうまく食べる方法。
 どれも一分ももたなかった。
 道郎はあきらめて、家やビルや看板がだあだあ流れる車窓の風景に目をやった。
 窓の外には、洗濯物がひらひらしている古びたアパートや、同じ色と形をした住宅や、店や工場やビルや焼却場。どこにでもある町がゆるゆると続いている。
 道郎が今のアパートに決めたのは、新築のわりに家賃が安く、大学まで自転車で通えるからという至極まっとうな理由からだ。県外の実家にいたときに、ネットで決めた。あのときはまだ、はじめての一人暮らしで妄想はふくらんでいた。まかないがでる都心のこじゃれたレストランでバイトをし、カフェやライブハウスに通って、田舎から友人がきたときに鼻をふくらませずに自慢する未来図までできていた。
 が、都心まで急行で40分以上かかるのは想定外だった。華やかな誘い文句ではじめたバイト先の洋食屋は、じつは有名なチェーン店で、都心なのに値段も手ごろとあって店の回転は早く、夜遅くにバイトを終えるとどっと疲れて、そこからどこかに遊びにいこうなんて気になるわけなかった。いつやめようかどうやめようかと思いあぐねているうちに、夏に突入しようとしていた。
 頼むよ。店長から手をあわせられたのはおとといの夜だ。
 ねえ、いきなしだけど来週ランチタイムこれないかな。キミ、マジできるからさ。とりあえず、一日。いや、マジこまってんのよ。いい大人が「いきなり」じゃなく「いきなし」とか、「マジ」連発ってどうなんだと黙っていると、「りょうかい」ととられて、しっかりシフトに組み込まれていた。
 夏休みだし、臨時だし、どうせやめるんだしまあいいかと、やってみた。ギャラは安いが夜より楽だと聞いているし。だが、ランチタイムは夜とはちがう忙しさがあり、仕事仲間の顔や名前もおぼつかず、道朗はとっとと帰って寝ることばかり考えていた。
 おかげで今、スマホを忘れてしまい、パンツをはきわすれたような居心地の悪さをかかえて、電車に揺られている。
 車窓からは、西日を受けて輝くマンション群が見えていた。ほとんどの部屋はレースのカーテンなどを目隠しに中を見せない。ごくたまに開かれた窓から、テレビを見る老夫婦や、事務所らしくデスク仕事をするひとが見えるていどだ。こんなふうにして、偶然ド現在進行形の殺人事件を目撃するというミステリーはなかったか。などと考えながら窓ガラスに指をはわせて、ゆき過ぎる赤の他人の生活のひとコマひとコマをスワイプしたり。
 その指がふととまった。
 通り過ぎたマンションの部屋に、妙なものがいた。
 まわりの乗客は、誰も窓の外などを見ていないようだ。道郎はドアの窓に顔をこすりつけるようにして、遠ざかっていく風景を追いかけた。あの灰色のマンションだった。線路のほぼ正面にある部屋にそいつはいた。
 かすれた青黒い豊満な身体。白い腹部。ゆったりとその巨体をのけぞらせて。マンションの一室で泳ぐ、くじらを見た。
 
 翌日店にかけつけた道郎は、ロッカーでスマホを見つけると、すぐにネットを開いた。
《くじら マンション 京王線》
 だだだっとマンションの宣伝サイトがならぶ。不動産屋。飲み屋。絵本屋。どれだけみても、まったくくじらとは関係がない。造形の凝ったくじらという名の橋梁でやや立ち止まり、道朗はため息をついてスマホをとじた。
 ばかみてぇ。くじらなんか、いるわけない。疲れてんだ。やっぱバイトをやめよう。
 それでも、しばらくは電車に乗るたびに窓の外を気にして見るようになった。遅番で帰るころには、灯りがついている部屋のほうが少ないし、中が丸見えの部屋などない。そのうちに、忘れた。
 気がつくと、いつのまにやら週の半分はランチタイムのバイトになっていた。出席をとらない授業とそうでない授業の取り方のコツを覚えたせいもある。昼のバイト仲間は、道郎と同じような大学生や専門学校生ばかりで、いれかわりが激しい。
「映画、すき?」
 ある時、ロッカールームを出て帰ろうとすると、昼バイトでいっしょの女の子から突然映画のチラシを差し出された。
 ハリン。韓国籍の留学生だが、まったくそうと感じさせないくらい日本語が堪能だ。店のどこからか、語尾のあがらない彼女の単調な声が聞こえると、つい道郎は耳をそばだてていた。直接話したことはないけれど。
 その彼女から、突然の映画の誘いとは。ハリンは、愛想笑いひとつ浮かべず、陶器のような白い肌をきわだたせる、黒目の多い大きな目を道郎に向けている。道郎の心臓は高まったが、そうとけどられないよう表情を殺して映画はほとんど見ないがきらいじゃないというと、ハリンは「じゃあ」とチケットを出した。
「1200円」
「え」
「映画代」
 ハリンは、当たり前でしょという顔をしている。さらに、10センチほど接近して「どうする」といわれて、あわてて道郎はお金を出した。するとハリンは、満足げにチケットを道郎の手に押し込み、帰っていった。
 あっけにとられていると、あの子、よく自主映画のチケットを売りつけるんだよと店長がおかしそうにいった。隣駅にある映画の専門学校にいっているらしい。
 そういうことか。道郎はしかたなく一人で映画を見にいくことにした。見て感想を伝えるという接触の可能性もなくはない。
 上映会場は、新宿の雑居ビルの谷間にあるビルの地下だった。巨乳のアニメキャラの看板とともにマッサージ系の店が入っているビルの地下で、足を踏み入れるのに思わずあたりを見まわした。
 狭く薄暗い会場の、客は道郎と、スタッフらしい男女が数名だけ。これは完ぺきに間違えたと道郎はあきらめて、うすべったい座布団が敷かれた椅子に腰をおろした。だが映画はいい感じだった。
 日本中にある鯨の墓をめぐる日本人とアジア人と欧米人の旅を描いたドキュメンタリーのような映画だった。三人は国籍も名前もはっきりいわないので、外見で道郎はそうと判断した。会話も「今日は暑いです」「私はおなかがすいています」という初級日本語会話のテキストにでてくるようなセリフだけ。あとはそれぞれスマホばかりいじっている。三人は山口や愛媛や千葉の鯨の墓をめぐり、そのたびに港から、橋から、近くの高台から黙って海を見つめている。日本人の女性はしゃがみこんで、イスラエル人の男は腰に手をあてて、韓国人の若い男はあごをあげて。それだけの映画だった。音楽もナレーションもない。
 くじらのいない海がきらきら光り、三人がまぶしげに目を細める。そのシーンが妙に印象に残った。いいのか悪いのかわからない。でも、道郎は自分でも意外なほど、映画に見入っていた。スクリーンの向こうに、うっすらとハリンの横顔を重ねながら。
 映画館をでると、霧雨になっていた。
 帰りの電車のなかでスマホをだしかけて、リュックにしまった。何かハリンにいいたいけれど、考えてみればアドレスも何も知らないのだ。直接会わないと話ができない。だからよけいに貴重な瞬間になるだろう。
 道郎は薄暗い窓の外を見ながら、大きなハリンの目や、映画にでていた元漁師と思われる老人の横顔を思い浮かべた。雑草ひとつない墓のまわり。光る海。別れた三人はきっと二度とあうことはない。でも不幸じゃない。世界は、なにも望まなければ平和になるようできてるんじゃないか。などと思う自分に照れて、口の端で笑いながら顔をあげた。
 と、道郎はがばとドアのガラスにかぶりついた。
 いた。くじらがいた。
 目の前をすぎていくマンションの一室だ。部屋の中はほんのり灯りがついている。大きなクッションが並ぶソファや食器棚がおかれたリビングとダイニングをまたぐ、大きな窓の中に、巨大なくじらが悠然とのたりうっていた。深い海の底の一部であるかのように、くじらが泳いでは立ち去り、また戻ってくるのがはっきりと見えた。
 道郎は画像の1ドットものがさないように、夢中で見入った。どういう仕組みなんだ。一種のプロジェクションマッピングみたいなものだろうか。なんにせよ、よくできてる。さすが東京だ。
 電車はいつになくゆっくりとその部屋の前を通り過ぎていく。それでようやく、くじら以外のものが目にとまるようになった。その部屋のベランダに小さな子どもの姿があった。パジャマを着た男の子だ。
 少年と道郎の目があった、気がした。
「ねえ」
 道郎は声をあげそうになった。
 振り向くと、ハリンが眉をひそめて見上げていた。
「い、いつからいたの」
「さっきから」
 電車がとまり、何人かおりた。二人はどちらからともなく、空いた席に並んで腰をおろした。
 ハリンは、顔を真正面に向けたまま訊いてきた。
「あれ、見た? くじらの」
 道郎はどぎまぎしながら答えた。
「見た。きみも?」
「何度も見た」
「そうなんだ。すごくない? 鳥肌だよ。ほら」
「へえ」ハリンは道郎の腕の鳥肌に興味はなかった。
「あたし、制作スタッフだし。いちおう」
 道郎の頭の中がこきこきと動いて気づいた。ハリンは映画の話をしているのだ。道郎に1200円で売りつけたあの映画の。黙った道郎を不審げにハリンが見つめてきた。至近距離に桃色の唇がある。
「ええと」道郎はなんとか頭をきりかえて、映画をほめあげることにした。ムダな演出がないのがいいとか、説教くさくなくていいとか。色がいいとか。ハリンは、黙って聞いている。
「あの三人、ぜんぜんしゃべらないのに、スマホにはなにか書きまくってるのがリアルだったな」
「そう」
「とった獲物の墓をつくるんだな」
「だね」
 反応のあまりの悪さに、話題を変えてみた。
「あの、そうだ。くじら。鯨缶、食ったことある?」
「もういいってば」
 ハリンの桃色の唇のあいだから白い歯が見えた。笑った。やば。かわいいじゃないか。
 キスしてえ。
 ハリンは小さく肩をひくと立ち上がった。電車が駅に停車していた。
 ドアが開きハリンは何もいわず、ひらりと出ていく。じゃあとも何ともいわずに。降り立った人の波に消えていくハリンの細い腰は、道郎を拒絶しているかのようだった。もしやなにか失敗したのか。鯨缶の話題は世界的にアウトか。それとも、まさか願望を声に出してしまったか。いや彼女はエスパーか。道郎は口を閉じかけたまま、人の少ない各停の電車に乗り続けた。

 洋食屋のバイトを昼シフトだけにしてもらった。店長は、にやにやしながら承諾した。だがハリンは、バイトが終わるとさっさと消えてしまう。
 おかげでうまくリベンジできないまま、一人駅へと向かうしかなかった。階段をおり改札をぬけ、水を買い、階段をおりてのぼってもう一度改札をぬけ、階段をおりて人の列の背後にたち、ペットボトルの水を飲む。いつもの電車。いつもの車両。こうしていると、自動的に頭はくじらのことでいっぱいになる。単位を落としそうな授業のことも、クセのあるバイトの先輩のことも、ハリンのことも忘れられる。
 あれ以来、道郎は何度もくじらを見るようになっていた。
 くじらと遭遇するのは、昼下がりから夕方までの間だとわかった。スマホは電源をきっておく。気のせいだろうけど、そのほうが見える確率が高い気がする。道朗は、息をこらしてガラス窓に向き合うようにして立った。
 今日は見えるか見えないか。見えなくても、それがあたりまえだという顔をして、残念がってはだめだ。さりげなく。そうさりげなくするのが一番だ。誰に見られているわけでもないのにそう思う。こんな奇妙なことをわくわくしながら待つなんて、久しぶりだった。
 そうして車窓の風景に目をこらす。そろそろだ。祈るように顔をあげる。
 いたーーー。
 くじらは部屋いっぱいに横たわり、尾を揺らして漂っていた。かすれた黒い背中を天井に押し付けている。あの少年は今日はいない。
 ほかにも気づいているひとがいるんじゃないかと車内を見るが、みんなスマホに視線を吸い取られている。よしよしと道郎は独りごちて、ふたたび車窓に目を向ける。あのくじらは、ぼくだけの秘密だ。あの少年も気づいていないのかもしれない。それとも中にいると逆に見えないのだろうか。
 もう車窓の風景は変わっていたけれど、道郎は何度もくじらの姿を反芻した。そういえば、あの映画で三人はくじらを見なかった。それどころか、くじらの画もなく、『くじら』と口にもした人もいなかった。
 なのに、わかった。彼らが海で何を見ていたかを。
 スマホを取り出し、翻訳アプリを開く。この発見をハリンに伝えたい。彼女の国の言葉で。

 次の日、ランチのバイトにハリンはこなかった。その次の日も。
 店長に聞くと、「あの子、やめたよ」とにべもない。連絡先は教えられないな。個人情報だからさ。ほかのバイトの子たちも知らないという。前に行ったビルの地下の映画館では、おい大丈夫かと思うほどのエロ映画をやっていた。もう彼女とはあえないのか。
 帰りの電車から見える風景さえ、いつもよりもの悲しく見えた。
 くじらが見えるのは、灰色がかった横に5世帯ならんだ8階建てのマンションだった。じつはグーグルでも検索していた。屋上に錆びついた貯水タンクと、ビル掃除の大きな看板がある。
 もうすっかりなじみとなったマンションが近づくと、道郎は車窓にへばりついた。だが、どの部屋も無機質に閉じられていて、人の気配がすっかりなくなっていた。もともと住む人が少しずつ減っている気配はあった。そしていつものあの部屋もまた、カーテンがとりはずされ、家具もなく、がらんとした室内がむきだしになっていた。
 くじらもいなかった。
 電車が次の駅で停車すると、道郎は迷わずかけおりた。自動改札をぬけて通りにでる。牛丼屋やチェーンのスーパー、パチンコ屋などがならぶ小さな駅前ロータリー。一度も降りたことはないけれど、どこかで見たような駅前だ。線路にそった道を道郎は足早にゆく。道は曲がりくねり信号をいくつかこえ、高架から離れないように歩き続けた。やがて、あの灰色のマンションにゆきついた。
 マンションは、電車から見るよりも大きく、もっと古びていた。
 自転車置き場には、錆びた子ども用の自転車が倒れたままで、ペットボトルがいくつも投げ捨てられている。開きっぱなしのガラスのドア。チラシのたまった郵便受け。おそらく取り壊し寸前なのだろう。住人の気配はまったく感じられない。
 管理人のいない薄暗いエントランスの先にエレベーターはあるけれど、ボタンを押しても動かない。見回すと、鉄の扉がある。そっと開くと階段が上へとのびていた。道郎はかけのぼった。たどりついた5階の通路で、このマンションがくの字に曲がっていたことを知る。
 その一番西の部屋だ。部屋に表札はない。
 道郎は、いちおう鉄の扉をノックした。呼び鈴も押した。どちらも反応がない。ドアノブをまわすと、動いた。
 部屋の中は薄暗く、やけに湿度が高い。ごめんくださいと小さな声でつぶやきながら靴をぬぎ、そっと足を踏み入れた。玄関前の短い通路の先のガラス戸をひらくと、二間ぶちぬきのリビングらしい部屋にでた。ベランダに面した窓からは、すぐそばに道郎が使っている電車の路線が見えた。
 部屋の中には何もなかった。家具どころか壁紙さえも剥がされて、がらんとしている。汚れたフローリングははげかけていて、足の裏にべたべたとした感触があった。この部屋で間違いないのに。ほんの数日前まで、ソファや食器棚らしきものがあったのに。くじらが泳いでいたのに。
 道郎が茫然と立ち尽くしていると、背後から声がした。
「きたぁ」
 ぎょっとして振り向くと、野球帽をかぶった色白の男の子が道郎を見上げていた。
「おまえ、ベランダにいた」
 男の子はにまっと笑うとぶーんと両手を横に広げて、部屋の中を飛ぶように横切った。
「お兄さんさ、……見にきたんでしょ」
 窓が激しく震えた。電車がすぐそばを走り抜けて、少年の声が聞き取れなかった。
「何をだって」道郎は叫んだ。
「くじらだよ」少年は、あっさりいった。「たまにいるんだよね。見つける人。お兄さんが最後かな。くじら、見にきたんでしょ」
「あ、あのさ」道朗は唇をなめた。塩辛い。
「くじら、すごいな。まるでホンモノみたいだった」
「本物だよ」
 そんなはずあるものか。でも相手は子どもだ。話をあわせようか。
「窮屈そうに泳いでたな」
「外から見ればね。でもここはムゲンなんだ」
 無限。道郎は声にだしていっていた。こんな年の子が使う言葉だろうか。いや最近はアニメとかいろいろあるし。それとも、道郎ははしゃぐ少年を横目で見る。この子のほうが、生きている人じゃな。
「ちがうよ」男の子は見透かすようにいった。「ここ、ぼくんち。この部屋に住んでた」
「誰と」
「ホゴシャとに決まってんじゃん。まだ子どもだからね。学校はあんまりいってないけどさ。退屈だもん」
 男の子は床の上の、ワタのはみでたクッションを蹴り飛ばした。赤紫色のクッションは電車からも見えていた。
「くじらねえ、ぼくが見つけて育てたんだよ」
「お前、いや、君が?」
「うん」
 最初は小さかったんだよ。でも、大きくなっちゃってさ。ここ壊すっていうし、ぼくんちも引っ越したんで、放したんだ。
「放したんだ」
 何をどう聞いていいかわからなくて、道郎はいわれた言葉を繰り返した。
「ねえ、お兄さんさあ、すごいばかみたいだよ」
「……だから大学いってんだよ」
「へへ。おいでよ」
 男の子は部屋を飛び出した。道郎はあわてて靴をはき追いかける。ドアを開けると、室内とはちがう夏の夕暮れのけだるい熱気がまとわりついてきた。
 少年はまるですべるように階段をかけのぼる。あとを追う道郎が最後の扉にたどりついたときには、荒い息切れを隠せなかった。
 グーグルで見たままの屋上だ。ひびわれたコンクリートの床面。赤茶けた給水塔。それにしてもやけに薄暗いし、妙な威圧感がある。見上げると、ばかでかい白いマットのようなものが、このマンションを丸ごとおおっていた。 
 それが生き物だと気づくのに、きっかり十七秒かかった。筋のはいったふくよかな白い腹が、手が届きそうなほど低くまでせまっているのだ。その腹がごぼりとたわみ、遠ざかった。それでようやく全体が見えてきた。
 くじらだ。
 地球上でもっとも大きいといわれる哺乳類、ザ・くじらが、このマンションの上空をふさぐように漂っていた。
 口をあけて道郎が見ていると、白い腹の皮がスローモーションで内側からよじれた。ひれというのか黒い翼のようなものが、大きく波打つ。うねり舞いあがるくじら。高く高く泳ぎだす。胴体が遠のき、日暮れかけた空の一部が見えて陽光がさしこむ。
  
   うぐぉっ。ひゅういーっ。ぐぉっ。

 空気をにじませる音があたりに弧を描いて広がった。
 男の子が両手を空にかざす。すると、高みへと泳ぎつめていたくじらがするりと戻ってくる。甘えるように、マンションの屋上のはしに黒い身体をおしつけて、巨大な口を開いて果てしない深淵を見せる。その慣れぶりに感心はするが、ペットにしてはでかすぎるぞと道郎は笑った。
 少年が道郎になにか叫んだ。
 聞き直すまもなく、ざあっと雨粒が注ぐ。たちまち道郎や屋上は濡れそぼる。額からこぼれる水滴をなめるとうっすらと塩辛い。潮をふいたのか。
 水滴は夕日をあびて、上空に大きくまるい虹がかかった。その下を悠然とくじらは泳ぎ続けていた。
 ふとわれにかえって道郎はいった。
「おい、いいのか」
 少年は楽しそうにくじらに手を振りながら、答える。
「なにがあ」
「こんなの、人に見られたら大騒ぎになるだろ。そしたら」
「なんないよ」
 ホゴシャは、ずっと気がつかなかったという。同じ部屋で暮らしていても気づかないひとは気づかない。普通はそうだよという。
「でも俺が最後だっていったな。他にもいたんだろ」
「うん。いたよ」男の子は両手を大きく広げた。
「いろんな人がね、こっそりくるんだ。お姉さんやおじさんや、赤ちゃんだいたおばさんもきた。そのときはこいつ、まだ部屋ん中にいたんだけどね。ホゴシャがいない時だけ、見せてあげるんだ」
「みんな、なんて」
「何も」道郎を見上げていう。「みんな、ほんとにいるんだとわかったら、帰ってくよ。二度もこない」
 自分のように偶然見た人が、やっぱりいるのだろう。そして、いるとわかればそれでいい。でもこうして外を自由に泳いだら、もっとたくさんの人が見つけてしまう。道郎はそのことが気がかりだった。
「こんなことしたら、誰かがネットとかに流したりして大騒ぎになるぞ。いいのか」
「誰が?」男の子はおもしろそうに下から道郎を見上げた。
「誰もそんなことしない。お兄さんもしないでしょ」
 そうだ。なぜか写真をとろうとかSNSでつぶやこうとか思わなかった。たぶんそれは……わかっていたから。このくじらは写真には残らない。それよりも、もし、そんなことをしたら、自分が二度とこのくじらを見ることができなくなる。見えなくなるということは、なくなるということ。そのことが最初からなぜかわかっていた。
 この宝物をみんな見て知っていたのかもしれない。でも口にしたら消えてしまう。だから誰も何もいわず、素知らぬふりをして、ひそかに守られている奇跡がある。
「お兄さん」
 男の子は野球帽のつばをひっぱり、深く被りなおすといった。
「ぼく、もう、いかなきゃ」
「うん」
 またあえるかとは聞かなかった。名前も聞かなかった。ただ、ありがとうとだけいった。
 少年は小さく微笑んで、くじらを見上げた。不思議な音階が遠くから響き、その振動が水の中を進むようにゆっくりと広がっていく。この音を知っていると道郎は思った。この空気の動きを。思ったとたんにごうと大きな風がおこり、くじらがまっすぐに降りてくる。くじらの大きな口の端から泡があふれでる。激しい圧に道郎は身をよじる。
 ごうごうとした音は遠のき、すぐそばを電車が走り去っていった。
 誰もいない荒れた屋上には、くたくたによれた紺色の野球帽が落ちていた。Wの字がとれかけている。
 通り雨でぬれた町に陽の光が落ちて、人々の背は雨粒で光り輝いていた。厚い雲のあいだにのぞく小さな青い三角形に、白く光るものが泳ぎ去っていく。
 道郎はマンションを出た。きっといつのまにか、この建物はなくなり別の何かになるだろう。ここにいた人やくじらのことも知らない人たちが、また違う日々を営むのだろう。
 道郎は、もう二度とおりないであろう駅の階段をのぼる。まばらに人が散るホームがあらわれ、その遠い向こうに、灰色のマンションがなつかしい横顔のようにたたずんでいるのが見えた。
 最後の一段を踏み出したとき、道郎は息をとめた。
 ホームに、まっすぐに前を向き、背筋をのばして立つあの子がいた。
 ハリン。
 ハリンはちらと道郎をみると、眉を小さくあげてまた正面を向いた。
 道郎は目を細めて、一歩ふみだした。今度こそいわなくちゃ。覚えた呪文のような言葉を口のなかでくりかえす。君と、もういないものについて語りたい。
 ぬのんこれるるぽあすんにか。
                                                              (了)

🌙「みんなのギャラリー」からタイトル画をお借りしました。Thanks.

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