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逆走する未来へ。テッド・チャン『あなたの人生の物語』

  よく「今こそ読みたいSF本」的な企画で必ずといっていいほど取り上げられるのが、この本。
 テッド・チャン氏の『あなたの人生の物語』だ。

 初出は1998年。日本では2001年の『SFマガジン』が初のお目見え。わたしの手元にある早川書房の文庫初版は2003年となっている。古いっちゃあ古いが、近年この作品が『メッセージ』という名で映画化されたし、めちゃくちゃ久しぶりに新刊『息吹』(早川書房)も出たし、SF好きじゃなくても目にした人は多いはず。
 本作は、このタイトルを冠した中短編集の一編である。

 いちおういえば、わたしはそこまでSFマニアじゃない。正直いえば、テッド・チャンの作品はわたしにはけっこう難解で、わかっているようないないような気持ちにさせられてしまう。でも、この作品は別格。

 物語はこうだ。

 主人公は言語学者のルイーズ。彼女が、突然あらわれた謎のエイリアン・ヘプタポッドとの意思疎通を依頼されるところからはじまる。彼女は、物理学者のゲーリーとともに、ヘプタポッドと接触し、少しずつ、じつにゆっくりと彼らの言語に近づいていく――。

 そこからエイリアンとの交流とか対峙が……一切ない。そういう物語ではないのだ。この物語が特徴的なのは、主人公の言語学者の「現在進行形」のようすを追いかけながら、同時に彼女の未来の出来事が語られていく点だ。最初のうちは、これが結末からの回想という、そういう手法だなと思ってしまうのだけれど、やがて奇妙だと気づく。回想が逆行している。未来を思い出しているのだ。
 どうしてこうなったのか。
 そこで思い出すのは、言語相対性論『サピア・ウォーフ仮説』だ。

 サピア・ウォーフ仮説とは、言語学におけるひとつの考え方のこと。
 よくある例では、ある部族の言語には「青」という言葉がない。だからこの部族には、「青」という色の概念がない。つまり、この仮説によると、「つかう言語によって、感じる・見える世界がちがう」ことになる。素人くさい、すごく雑な説明ではあるけれど、わたしはそう解釈してもうた。
 言語が、思考や感覚をよびさます。
 文中では、サピア・ウォーフ仮説のことは一言も触れていないけれど、
 あとでネットをさぐると、同じようにとらえている人が多いので、あながち間違っていないだろう、と思う……。(←自信ない)

 この仮説、わたしは語学教育の勉強をしていたときに知った。へえ、面白いなあと思っていたまさにそのとき、この物語を読み「こ、これは……!」と人知れず大興奮してしまったのだった。
 だから個人的には、未知の言語を語るエイリアンとの最初の接触行動はじめ、言語学者ならではの取り組みも、すごくおもしろい。

 でもっ、こういうきわめて個人的なエウレカ気分がなくても、この物語はめちゃくちゃおもしろいはず。

 たとえば、物理学者ゲーリーが語るフェルマーの原理。作者はむしろ、こっちのほうから物語をはじめたらしいが、原作にも図がのっていて、理系でない吾にも「ナルホド」とうならせてしまう。
 

 あるいはエイリアンとの遭遇。これほどSF的で魅力的な題材でありながら、展開はかなり淡々としている。すべてのできごとが、おさえられた言葉で注意深く語られているせいかもしれない。この語り口がいい。

 さて、タッグを組んでエイリアンとのコミュニケーションに取り組む言語学者と物理学者。彼らは、しだいに恋仲になり、娘が生まれる。
 その娘が「あなた」だ。
 この、まだ見ぬ、けれどよく知っている娘へ、主人公は語りかける。
 それこそが、この物語をつらぬく、もうひとつのものがたり。
 ああこれが……。

 しかしまあ、これが映画化されたと知って、めちゃくちゃ驚いた。
 なにしろ、原作ではエイリアンの描写は乏しいし、お互い動きもあまりない。具体的な会話もない。しかも過去と未来が静かに錯綜していて、そこがこの物語のキモだけれど、多くは語れない仕組みになっている。
  どうしたって映画にしづらかろう。

 というわけで半信半疑で映画を観に行ったけれど……
 悪くないではないか。いや、えらそうにすみません。
 設定はかなり変わっていたものの、空気感は似ている。
 とくに原作でははっきり描かれていないエイリアンとその言語を具象化している。これはすごいと思った。さすが映画だ。
 あまり固いこといわずに、映画は映画、本は本で、両方楽しんでしまおう。
 
 ところで、『あなたの人生の物語』を訳したのは、公手成幸くでしげゆき氏。ほかの方が訳しても同じになるのだろうか。
 とくに「あなた」へ語る声は切なく、いつまでも脳内をリフレインする。

 と、すっかりこの物語の「声」に酔いしれたあとは、ぜひ解説も読んでいただきたい。解説はSF翻訳者・山岸真氏。いやいやいや、山岸真氏の文体模写があまりに絶妙すぎて、ツボにはまってしまったぞ。

 はい。こうした解説のお楽しみも、紙の本ならでは。
 遠からず公開予定の『文庫の解説・さきに読むか、あとから読むか』(仮)でも、取り上げていくつもりであります。
 




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