きだ

寺社巡り、仏像、石仏、先祖調査、読書が趣味。東北地方の寺社・史跡などを紹介しています(…

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寺社巡り、仏像、石仏、先祖調査、読書が趣味。東北地方の寺社・史跡などを紹介しています(毎週土曜日更新予定)。 他にも、山伏の祖父から聞いた不思議な話を綴っていきます(話題を仕入れ次第更新するため、更新は不定期です)。

マガジン

  • 磐座を訪ねて

    磐座(いわくら)とは、神道において神が宿る石とされ、現在も神域として全国各地で祀られており、信仰の対象となっている。磐座は、古くは神道成立以前のアニミズムから、神は山・樹木・石などに宿ると考えられ、神聖視された。磐座を求め、時には山奥へもわけいる。今も祀られる磐座を訪ね歩いた、磐座探訪の記録。

  • 石仏を訪ねて

    石で作られた仏様、石仏。時の有力者が作らせた仏像と異なり、石仏は記録に残らない民衆の手によるものが多く、そこには当時の人々の祈りが込められている。 日本全国に残る石仏を訪ね歩き、その魅力を紹介していく。

  • 奥州三十三観音巡礼

    岩手・宮城・福島3県に札所がある観音霊場、奥州三十三観音巡礼の記録です。 これから巡礼を考えている方の道しるべになるような内容を心がけています。 観音霊場が三十三番あるのは、人生で遭遇する苦難、災難、悩みに対し、観世音菩薩が33通りの姿に姿に化身して救うという観世音菩薩三十三変化に由来するとされています。 奥州における観音信仰は、平安時代の人物である坂上田村麻呂と慈覚大師円仁による布教の影響が大きく、奥州三十三観音霊場のほとんどの観音堂は両者の開創によるものといわれています。 奥州三十三観音霊場は、平安時代末期に、現在の宮城県名取市にいた老女・旭が、篤く信仰する熊野の神のお告げを受け、西国三十三観音霊場にならい、観音霊場を定めたことに始まるといいます。旭が創設した札所は、江戸時代には衰退し、現在の札所は、1761年に、第30番札所補陀寺の智膏和尚ら7人の僧たちによって定められたものです。

  • 山伏の祖父から聞いた話

    山伏の祖父が体験した不思議な話を綴っています。更新は不定期です。

最近の記事

日枝神社

今回は、磐座が祀られているという、福島県郡山市西田町にある日枝神社を訪ねた。 日枝神社は山王山頂上近くに鎮座している。 社伝によると、延暦10(791)年、坂上田村麻呂による東征の際、藤原氏若狭太郎という京都北西の武士が守護神である日吉権現を負いて従軍し、東奥を平定した。その後、田村麻呂は帰朝したが、若狭太郎はこの地に土着し、延暦19(800)年に山王山に守護神を安置し、岩神社山王大権現と崇めたことが日枝神社の始まりという。 入口から鳥居をくぐり、石段を登っていく。

    • 三ツ石神社~鬼の手形残る巨石~

      岩手県盛岡市にある三ツ石神社には、岩手県の名の由来にもなった、鬼の手形が残る3つの大岩がある。また、三ツ石神社は、盛岡の伝統芸能である、さんさ踊りの発祥伝説の地でもある。 かつてこの地方に羅刹という鬼が住んでいて、付近の住民を悩まし、旅人をおどして困らせていた。そこで、人々は三ツ石の神にお祈りをして鬼を捕えてもらい、境内にある巨大な三ツ石に縛り付けたという。 鬼は、二度と悪さをしないし、また二度とこの地方にやってこないことを誓ったので、約束のしるしとして三ツ石に手形を押さ

      • 名取熊野三社

        宮城県名取市に、熊野那智神社・熊野神社(熊野新宮社)・熊野本宮社からなる名取熊野三社がある。 名取熊野三社の創建は、『安永風土記』によれば、保安年間(1120~24)の頃のことだといい、奥州三十三観音霊場を創設した名取の老女が勧請したという伝説が残る。 今回は、この名取熊野三社についてご紹介したい。 熊野那智神社熊野那智神社は、名取平野を一望できる高舘山山頂にある。 熊野那智神社の創建は、社伝によると名取熊野三社成立よりさらに遡り、養老3(719)年に閖上浜の漁夫がご神

        • 東光寺磨崖仏「宵の薬師」

          宮城県仙台市宮城野区岩切に東光寺という曹洞宗寺院がある。 東光寺は、平安時代に慈覚大師円仁が開山したと伝えられ、鎌倉時代には陸奥国留守職に任じられた留守氏の菩提寺にもなっている古刹である。 鎌倉時代の東光寺は、多賀国府の北西に位置し、留守氏をはじめ、国府の有力官人や町場の有力者などの墓所が営まれる霊場であったといわれる。 寺伝によると、「多賀国府御寄附」の天台道場として発展したものの、洪水により荒廃し、天文元(1531)年に文統和尚が中興し、曹洞宗に改宗したとのこと。 東

        日枝神社

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        • 磐座を訪ねて
          2本
        • 石仏を訪ねて
          8本
        • 奥州三十三観音巡礼
          33本
        • 山伏の祖父から聞いた話
          7本

        記事

          宮床六地蔵巡り

          宮城県中部に位置する大和町宮床地区。藩政時代には宮床伊達家(伊達政宗の孫・宗房を祖とする。)が治めた地域で、宮床伊達家の小城下町として栄えた地に、「宮床六地蔵」と呼ばれる石仏がある。 宮床伊達家は、後に仙台藩中興の名君と謳われる、仙台藩5代藩主伊達吉村(宮床伊達家の祖・宗房の子)を輩出しており、吉村ゆかりの石塔が大和町内に残されている。 今回の宮床六地蔵は、吉村の母・松子(片倉小十郎景長の長女)が建立した地蔵で、宮床地区内に6体(中野地蔵・鍛冶屋原延命地蔵・草ノ川地蔵・法

          宮床六地蔵巡り

          海蔵庵板碑群

          宮城県石巻市の北上川流域に、海蔵庵板碑群(かいぞうあんいたびぐん)と呼ばれる中世板碑群がある。 北上川が海に合流する河口はいくつかあり、三陸海岸の長面(石巻市尾崎)という地域にも河口がある。この河口の長面浦を見下ろす傾斜地に海蔵庵板碑群がある。 海蔵庵板碑群には、全国でもここでしか確認されていない、側面と上方を石板で囲まれた石堂風の板碑がある。 海蔵庵の近くに板碑群の入口がある。 ゆるやかな坂道を登ること、数分、板碑群が見えてくる。 海蔵庵板碑群は、確認されているも

          海蔵庵板碑群

          天保の飢饉と叢塚

          天保の飢饉は、天保4(1833)~8(1837)年に、関東地方から東北地方の広範囲にかけて起きた飢饉で、享保の飢饉・天明の飢饉とともに江戸三大飢饉に数えられる。 この飢饉は、天保6(1835)年から8(1837)年にかけて最も甚大な被害をもたらした。 この時期の仙台藩は、天保4年は長雨による凶作、同6年は冷害と洪水で大不作、翌7年は大冷害で、今の5月中旬にあたる時期に季節外れの大雪があり晴天の日がなく、6月からはヤマセにより稲が枯れ収穫皆無という想像を絶する惨状だったとい

          天保の飢饉と叢塚

          湊浜薬師堂「暁の薬師」

          湊浜薬師堂は、陸奥国の国府(多賀城)が置かれていた宮城県多賀城市の隣、七ヶ浜町にある。 同町には、国府ゆかりの延喜式名神大社である鼻節神社が鎮座し、湊浜薬師堂は薬師堂周辺地区の鎮守として、長年信仰を集めている。 薬師堂の本尊は、洞窟内に彫られた7体の薬師坐像(磨崖仏)で、現在は4体が現存。仙台市宮城野区岩切の東光寺、利府町菅谷の道安寺の薬師像とともに、宮城郡内三薬師に数えられる。 また、慈覚大師円仁が一夜で彫ったという伝説にちなみ、湊浜薬師は、「暁の薬師」とも呼ばれてい

          湊浜薬師堂「暁の薬師」

          舘ヶ岡磨崖仏と供養碑群

          今回ご紹介する福島県須賀川市にある舘ヶ岡磨崖仏と供養碑群は、須賀川市の西部に位置し、舘ヶ岡地区の中心を流れる滑川の南岸、中世に須田氏の居城であった向山丘陵の西崖面にある。 駐車場はないが、付近に通行の邪魔にならない程度の駐車可能なスペースがある。参拝時にはちょうど地元の方が散歩しており、手を合わせている姿が見られた。 舘ヶ岡磨崖仏は高さ2.15mの定印を結ぶ阿弥陀如来坐像で、鎌倉時代後期の作と考えられている。 石質が良いためか保存状態が大変良好で、鎌倉時代の作とは思えな

          舘ヶ岡磨崖仏と供養碑群

          羽黒山磨崖仏~霊山の麓の十三仏~

          前回の和田大仏に続き、今回も福島県の磨崖仏を紹介したい。 福島県岩瀬郡天栄村に、羽黒山磨崖仏はぐろやままがいぶつがある。羽黒山の名が示すとおり、山頂に羽黒山の分社を祀る古くは山伏の祈祷場で、里人から神聖な山として崇められていたという。また、この羽黒山は歌舞伎の「娘道成寺」に登場する僧・安珍が修行した山と伝わる。 磨崖仏はお墓の一角にあるため、拝観の際は墓地であることをわきまえた節度ある行動をお願いしたい。 駐車場はないため、墓地の前に車を停め参拝した。Googleマップ

          羽黒山磨崖仏~霊山の麓の十三仏~

          和田大仏~横穴古墳群に彫り込まれた磨崖仏~

          福島県は東北地方のなかでも磨崖仏が多いのではないかと感じる。磨崖仏とは、石仏の一種で自然の岩壁や露岩などに造立された仏像のことである。福島県須賀川市にある和田大仏は、鎌倉時代の作と推定される磨崖仏である。 大仏付近には大仏大橋という橋があるほか、地名も「和田大仏」となっている。大仏の姿は道路からでも木々の合間から見ることができる。大仏大橋の下に車を停め、大仏へ向かう。石段の下からでも厳かな雰囲気が漂ってくる。 石段を登ると和田大仏と横穴古墳群の全容が見えてくる。横穴古墳群

          和田大仏~横穴古墳群に彫り込まれた磨崖仏~

          田沢磨崖仏

          宮城県亘理町にある田沢磨崖仏は、通称「岩地蔵」と呼ばれ、阿武隈川に突出した岩に刻まれており、古墳時代末期の横穴墓群のうちの4基を利用した磨崖仏である。製作時期は鎌倉時代から室町時代初期のものと思われ、4体の地蔵尊と3枚の板碑が刻まれている。 磨崖仏は阿武隈川河畔の街道から外れた場所にあるが、県道亘理村田線に標識があるため、迷わずに到着できた。 この場所は古来、「稲葉の渡し」といわれたところで、阿武隈川を渡る交通の要衝だった。磨崖仏はこの渡しの安全を願うことと深い関係があっ

          田沢磨崖仏

          天台寺(奥州三十三観音第33番札所)

          奥州三十三観音の結びとなる第33番札所八葉山天台寺(はちようざんてんだいじ)は、岩手県の北端に位置する二戸市浄法寺町にある、1200年余りの歴史を誇る東北有数の古刹です。瀬戸内寂聴師が名誉住職を務める寺でもあります。 開山は、神亀5(728)年に聖武天皇の勅願により行基が自作の木造聖観音立像を安置、天皇御真筆の勅額を掲げたことによると伝えられています。 山号の八葉山は、この山の八つの峰と八つの谷からなる、蓮の花が開いたような地形から名付けられ、寺号の天台寺は唐の天台山にあ

          天台寺(奥州三十三観音第33番札所)

          正覚院(奥州三十三観音第32番札所)

          奥州三十三観音第32番札所の北上山正覚院(きたかみさんしょうがくいん)は、岩手県岩手町にある天台宗の寺院です。 「御堂観音」とも呼ばれ、明治天皇が2度この地を訪れ拝礼しています。 創建は大同2(807)年、坂上田村麻呂が奥州平定の折、敵味方の戦没者の慰霊と天下泰平、五穀豊穣を祈願して一宇を建立して木彫りの十一面観音菩薩を安置し、一族の僧了慶を開山としたのに始まると伝わります。田村麻呂が安置した十一面観音菩薩は後に紛失したといいます。 また、「北上山」の山号にあるように、

          正覚院(奥州三十三観音第32番札所)

          聖福寺(奥州三十三観音第31番札所)

          奥州三十三観音第31番札所の江峰山聖福寺(こうほうざんしょうふくじ)は、岩手県八幡平市西根にある曹洞宗の寺院です。 聖福寺は、慶長3(1598)年に寺田城主である北愛一彦助の開基、永泉寺(盛岡市)二世尽室長呑大和尚の開山と伝わります。 本尊は釈迦牟尼仏で、平安末期の作で八幡平市指定文化財です。また、本堂には県指定文化財で平安末期の作とされる光昧地蔵菩薩が安置されています。 墓地の間を通り抜けると、正面に本堂があり、右手に観音堂が建っています。 観音堂は、別名「白坂観音

          聖福寺(奥州三十三観音第31番札所)

          補陀寺(奥州三十三観音第30番札所)

          奥州三十三観音第30番札所である白華山補陀寺(はっかさんほだじ)は、宮城県気仙沼市にある曹洞宗の寺院です。江戸時代に奥州三十三観音霊場の再興に尽力した僧が住職を務めていた寺院でもあります。 寺伝によると、補陀寺の開山は寛平2(890)年で、もとは補陀落寺という天台寺院で気仙沼市赤坂の小沢田にあったと伝えられています。そのあたり一帯はかつて入海だったため、時化で海が荒れると境内が波に洗われることも多く、次第に境内も廃れてしまったそうです。 文亀元(1501)年、当時この地を

          補陀寺(奥州三十三観音第30番札所)