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元・天才キッズ動画配信者の末路①

 はじめまして。キブシと申します。

 私は10年前、某動画配信プラットフォームの登録者500万人を超えるチャンネルで「キッズ配信者」をしていました。

 わざわざ“某”動画配信プラットフォームとする意味も無いかも知れませんが、皆さん最初に思い浮かんだであろうあのサイトです。キブシというのも当時の名前ではありませんし「10年前、500万人」といった数字は、あくまでおおよそになります。 

 こんな具合に、これからお話する内容は固有名詞や数字はボヤかして書かせて頂きますが、全ては特定を避けるためです。それでも書こうと決めたのは、ある人との約束を果たすためであり、この話に登場する大人達を糾弾したいとか、配信者業界に一石を投じようとか、そういった大義は一切持ち合わせておりませんのでご了承下さい。

 また、私は一般的な教育を受けて来なかったため、お世辞にも読み易い文章とは言えませんし、必要以上にダラダラと長く書いてしまうかも知れません。それでも、どうしても皆さんに伝えたい事があってモニターに向かっています。

 どうか温かい目で最後まで読んで頂けると嬉しいです。

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 「キーちゃん、遊びの時間だよ」

 母はきまった時間になると、私の部屋に来てこう言う。実ににこやかに、でも機械仕掛けのような正確さで、決まってこう言うのだ。“遊び”と言うのは当然、動画撮影の事である。

 当時の私は動画配信者というものが何なのか理解していなかった。おそらくどんなキッズ配信者も、テレビドラマに出ている子役も、可愛い歌がバズってメディアに引っ張りだこな少女も、それが仕事だと理解できるのは甘く見積もっても5歳くらいからなんじゃないだろうか。それまでは何となく“ごっこ遊び”の延長だろうと思う。そう言った意味で“遊び”は決して間違いでは無い。

 私の最初の記憶は3歳くらいだった。スライムを風呂場の浴槽にぶちまける動画の最中、誤って口の中にスライムが入って気持ち悪かったので鮮明に覚えている。口に入ったのは、姉が勢いよく撒き散らし過ぎたせいだった。動画配信は、2歳上の姉と、私と、まだ産まれたばかりの妹の3人で行っていた。妹が生まれる前は「Aちゃん(姉の名前)Bちゃん(私の名前)チャンネル」というチャンネル名だったらしいのだが、記憶が無い。私が覚えているのは「ABC(妹の名前)ファミリー」と改名してからだった。

 身体中にスライムまみれになった姉は、顔を真っ赤にしながら母に向かってギャーギャーとわめいていた。内容まではさすがに記憶に無いが、水着姿のまま“遊び”が中断して、風呂場の床ですっかり足が冷えてしまい不快だったのは何となく覚えている。あとで姉本人から聞いたのだが、ちょうどその頃から動画配信が嫌になり、事ある度に反抗していたらしい。スライムを必要以上に派手にぶちまけたのも、今思えばストレス発散のひとつだったのだろう。とにかく、このスライム事件が私が記憶している最初の出来事だった。

 断っておくが、私は両親に虐待されていた訳では無い。まぁ何をもって虐待と呼ぶかにもよりそうな怪しいラインだけれど、少なくとも暴力を振るわれたり食事を抜かれたりした事は一度も無かった。それどころか、私たちは子どもには不釣り合いな広い部屋をそれぞれが与えられていたし、欲しいと言わなくても山の様にオモチャが買い与えられ(“遊び”に使うためだろうが)母とは別の女性が温かい食事を毎日つくってくれた。そして、私が“遊び”をやればやるほど、私の部屋はどんどん大きくなって、オモチャの山は更に積み上がり、家に居る母以外の女性も増えた。私が5歳になるまで、両親は4回も引っ越しを繰り返し、どんどん家は広くなった。

 それに伴って“遊び”に立ち会う大人たちもどんどん増えていった。私達にとっては、カメラの向こう側にいる黒子のような存在。最初にカメラを回していたのは父だった気がするのだけど、いつしか別の男の人が担当していた。カメラの台数も最初は一台だったけれど、メイン以外にサブのカメラも増員された。サブカメラマンの一人に、いつも靴紐を結んでくれるお兄さんがいて、ヒゲがサンタクロースみたいだと思って、密かに“サンタ”と呼んでいた。でも、そんな大人たちのほとんどは、仲良くなれそうになると辞めてしまい、二度と会う事は無かった。今思うと、入れ替わりの激しい職場だったのだろう。私たちには優しい母が、その大人たちを顎で使っている様子を見ると、少し怖かった。

 ハッキリと覚えているのは5歳になってからだ。姉が“遊び”に嫌気が差し始めた年齢が、ちょうど4歳くらいだったが、私は5歳の誕生日を迎えても嫌だとは思わなかった。これが単なる“遊び”では無いとさすがに分かっていたけれど、それでも何も変わらなかった。

 「今日、お姉ちゃんはお休みだからね。」

 7歳になった姉は、母との口論が益々増えて、私や妹へのあたりまでキツくなっていたため、動画には滅多に登場しなくなっていた。姉もそれを望んでいただろうし、母からしても戦力外に思ったのかも知れない。“遊び”の最中に、姉が部屋で物音を立てるから、その度に撮影を止まったりするのも子どもながらにイラついた。とにかく、これから起きる事件があるまで私は姉が疎ましかった。“遊び”をサボる不良だと思っていたのだ。

 動画の調子はと言うと、それまで主演女優であった姉の代わりに、ちょうど愛らしく拙いお喋りができるようになった妹が再生数を大いに稼いでくれたし、何より私の評価が思いの外高かったのだ。いつしか、このチャンネルの中心は姉では無く、私になっていた。

「はぁい!どうもこんにちはっ!キーちゃんですっ!」

 カメラ目線で元気いっぱいポーズを決めると、カメラのピントが私に定まるのが分かった。と同時に、この“遊び”以外では得られない何らかの快感に支配された。私が反抗する事も無く“遊び”にのめり込めた理由は、母に褒められるのが嬉しかったのも多少なりともあったけど、それ以上にこの快感が大きかった。大きなきっかけは、私の5歳の誕生日にバースデーケーキを食べる“遊び”をした後だった。口元に残ったクリームを名前も知らない大人に拭いてもらった後、私は母に聞いてみた。

「今日の“遊び”どうだった?」

 母はいつも通りにこやかな顔で労ってくれたが、私はもっと具体的に意見を聞きたかったのだ。「ママはいつも褒めてくれるけど、この“遊び”はたくさんの人が観ているんだよね?その人たちが喜んでくれたら、お金がたくさんもらえるんだよね?だったら、もっと喜んでもらうにはどうしたらいいんだろう?」と、ここまでしっかりした言葉で言ったか定かでは無いけど、おおよそこんな感じの内容を母に伝えたのだ。母は少し困った様な顔をしていたが、その数日後に私を両親の寝室に招いてくれたのだ。

 私はそれまで両親の寝室に入った事が無かった。そう話すと大抵の大人は眉をひそめるのだが、私にとってはそれが普通だったので特段何とも思っていなかった。物心ついた時から自分の部屋で妹と寝ていたので両親と寝た事はほとんど無く、年に数回“旅行”先のホテルで一緒に寝る事があったくらいだ。それが珍しくて、かえってそわそわしたのを覚えている。ましてや、両親の寝室は特別な場所だった。

 絶対に入っちゃいけないと言われて育ったし、私は姉と違って従順だったため入る気も起きなかった。母に呼ばれ、ドキドキしながら入った寝室は思ったよりも小さく、モノが乱雑に置かれていた。当時住んでいた大きな一軒家は、リフォームした箇所はモダンな内装だったが、動画で使わない物置部屋や玄関に近い客間は日本家屋のままで、両親の寝室も畳の部屋だった。部屋を通る度にほのかに薫っていた匂いはこれだったのかと、私は答え合わせをした気分だった。

 「キーちゃん、動画の反応が見たいなら見せてあげるよ。」

 そう言って母は、小さな机の上に置かれたノートパソコンを広げて、私の方にゆっくりと向けた。初めて見る動画配信プラットフォーム。私や妹たちの写真に大きな文字が載ったいわゆるサムネールが大量に並んでいた。ほとんど毎日、それは更新され続けている。“遊び”の一環で家族写真を壁に貼ったりしていたので、自分の写真には見慣れていたはずだけど、こうして並んでいるサムネを一望するのは奇妙な感覚だった。母は、私に向けたPCを脇から操作し「キーちゃん5歳の誕生日サプライズ!」と書かれた動画をクリックした。

「キーちゃんはいつも明るくて元気だから、ファンがたくさん居るよ。一番見てるのはキーちゃんくらいの年齢の子たちだけど、その子たちのママたちにも人気。どうしたらキーちゃんみたいに良い子に育つかって質問も来るんだよ。」

 その時の母は、少しだけ誇らしげだった。私も、そう感じた事が嬉しくなった。それから母はまた操作をして管理画面というものを見せてくれた。

「普通の動画は途中で観るのを止めちゃう事が多いんだけど、この動画は最後までちゃんと観てくれた人がすごく多かったんだよ。つまり、とても反応が良かったの。普段と違うキーちゃんのリアクションが良かったのかな。」

 今でこそ「アナリティクス」だの「視聴継続時間」だの「離脱」だの専門的な用語は知っているものの、当時は何となく感覚で聞いた事を理解していた。とにかく、この“遊び”には大勢の視聴者がいて、その反応は動画ごとに変わるのだと。そして、これだけたくさんの動画が観られるサイトなのだから、少しでも飽きたと思われたら別の動画に行ってしまう事は私でも想像できた。それを避けるために、一瞬でも飽きさせてはいけないのだ。そのために、私はコロコロと様々な表情を見せ続ける必要がある。子どもながらに、そんな事を思う様になった。

 それから、私の“遊び”方が変わった。私は動画が公開されたあと、母に管理画面を見せてもらうのが習慣になったのだ。これまで通り無邪気に楽しむ一方で、常に動画を観る人たちの顔を想像しながら振る舞いに変化をつけた。自分なりに変化をつけてみて、それが狙い通りウケた時は心底嬉しかった。これまで感じた喜びがささやかな事だと思うくらいに、脳が痺れるほど嬉しく思ったのだ。私はその頃から、この“遊び”には、何らかの法則がある事に気がついた。その法則は複雑過ぎて理解しきれるものでは決してないだろうけど、少しでもその真理に近付きたいと心の奥底から願う様になったのだ。

 今思えば、このあと起こる全ての不幸は自分の責任だったと思う。5歳の子どもとは言え、動画配信にどんどんハマっていったのは自分自身だ。私は動画が回れば回るほど、高評価やコメントが増えれば増えるほど、天にも登る心地がした。確かに私を動画中毒にしたきっかけは母だったのかも知れない。しかし、それを脱する機会はこれまでの人生に何度もあった。そこから抜け出す事が出来なかったのは他でも無い私自身の責任だ。

 全ては自己責任。ただひとつ、私に不運があったとすれば、私が動画配信の才能があったという不運だろう。

 ある晴れた日の事。今日は外で“遊ぶ”には持ってこいの日だなと思いながら、大きな庭で母や大人たちが撮影準備をしているのを窓からぼんやり眺めていた。姉は、ノックもせずにいきなり入ってきた。

 「ビックリした…!どうしたの?」と私が言うと、

 「いつまでやってんだよ、気持ち悪い」と吐き捨て、姉は私を汚物を見る様な目で睨みつけた。私は子どもながらに、いや子どもだから余計敏感にそれを感じ取ったのだろう、カッと首筋が熱くなるのを感じて強い語調で言い返した。

 「お姉ちゃん、なんでちゃんと遊ばないの?たまには遊んでよ、私ばっかり大変じゃん。妹もがんばってるのに!」私が大きな声を出したからか、姉は勢いよく部屋に入ってきて、私の口を手で覆った。両親にも乱暴に扱われた事が無かった私はどうしていいか分からず、思いっきり姉の腕を掴んで引っ張ろうとした。私の爪が食い込んで姉の腕は血が滲んだ。それでも二歳の差は想像以上に大きくて、姉はびくともせず、より一層強く押さえつけられた。私は怖くて怖くて、自分の心臓の鼓動が聞こえる程だった。そして、恐怖でひきつる私の顔にゆっくりと顔を近づけ、小さな声で、でもハッキリと姉はこう言ったのだ。

 「逃げろ。」

 私は何が何だか分からなかった。そのあとすぐに母が部屋にやってきて、いつものように“遊び”が始まった。姉の言葉は気がかりだったけど、私は集中して“遊び”を最後までやり切った。私はいつも通り完璧に振る舞ったし、いつも通り妹は可愛かったし、いつも通り姉が不在のまま“遊び”は終了した。いつもと違ったのは、その日を最後に、姉は家から姿を消したのだった。

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