サイバースペースからの目覚め

サイバースペース。ウィリアム・ギブスンが1984年にカナダで出版したサイバーパンク小説『ニューロマンサー』において初めてその概念は出現した。
主人公のケイスはサイバースペースへと没入=ジャックインし、非物質の世界を泳ぐ。

サイバーパンク小説といえば『ニューロマンサー』とフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の二つが私の中には浮かぶ。同じサイバーパンク小説ではあるが、両者に描かれるテクノロジーは異なる。前者は情報技術、後者は人造人間だ。言うなれば前者は非物質で後者は物質なのだ。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は昨年『ブレードランナー2049』としてスクリーンに復活した。前作から35年が経っての続編となったが、私はここに、この35年の間での、デジタルテクノロジーの変遷を感じた。

『ブレードランナー2049』と『ブレードランナー』を比較した際に、着目したい箇所が二つある。一つは作中の人造人間=レプリカントの「人間らしさ」だ。レプリカントがまさに生まれ落ちるシーンや、ネアンデル・ウォレスがレプリカントの腹を切った際に流れ出る血の描写など、レプリカントの生と死がとても印象深かった。『ターミネーター』のように皮膚の下には金属が眠っている機械ではなく、皮膚の下にも生きた細胞が続く生物としてレプリカントは描かれていた。デッカードがレプリカントなのかどうかわからないままだという点もそうだ。映画を通してその疑問は払拭されない。人間とレプリカントの違いを私たちは見抜けない。それだけレプリカントは人間らしく、もしかしたらその違いなどないのかもしれない、とすら思える。

二つ目はデジタルテクノロジーの進化だ。『ブレードランナー』ではデッカードは音声認識を用いて解像度が荒いブラウン管ディスプレイを操作していた。一方で『ブレードランナー2049』ではKの傍にはホログラムのジョイが付きそう。しかしその非物質の体は劇中ではひどく不自由で、不安定で、脆弱に描かれている。この世界においては、非物質なデジタルテクノロジーは人間とレプリカントに並べない。永久に残り続けるかと思われるデータが、細胞よりも儚く描かれている。

私はこの二点に、テクノロジーの物質性回帰を感じた。『ニューロマンサー』に始まるサイバースペースの考えと、1990年代前後の情報革命によって人々は非物質世界に対する憧れと危機感を抱いていた。地球という有限な世界を逸脱し無限に広がる、宇宙に等しい非物質世界への扉。そこから漏れる眩い光に人々は目を奪われた。確かにディスプレイの上に自律的に流れる文字情報は、ディスプレイの裏の誰かの存在と空間を感じた。『ニューロマンサー』から始まり90年代〜00年代の映画やアニメなどには多くサイバースペースが描かれた。映画でいうなら『マトリックス』、アニメでいえばキリがないだろうが、私の世代でいえば『デジモンアドベンチャー』などもその一つと言えよう。その結果私たちは今こうして日々ディスプレイを眺め、ディスプレイを触り生活をしている。しかしいつになったら扉の奥へ行けるのか?そこへの疑問を私は拭えない。

私たちはサイバースペースに立ち入れるのか?ディスプレイの上に踊る光の粒子にどのような意味があろうとも、それがどのような動きをしようとも、それはディスプレイであり、未だ窓なのだ。扉ではない。窓の奥に本当にスペースはあるのか?それは私たちの思うスペースという形式に当てはまるのか?

そう思うと、今このタイミングで『ブレードランナー』が復活したことに何かしらの象徴性を感じずにはいられない。テクノロジーに求められている結果は扉の奥から手前へ、非物質世界から物質世界へと回帰している。これは少なからず、何もこのような長ったらしく稚拙な文章を読まずとも共感されることかもしれない。ただそのような事象が、映画というマスなコンテンツにおいても描かれていると解釈できる点が興味深い。テクノロジーを保有する人々に限らず、その生活を享受する側の人々に取っても、そのような価値観が形成され得る可能性を感じ取れるからだ。今や人々は、サイバースペースという夢から目覚めたのかもしれない。非物質の夢に破れることで、未だかつてないほどに物質・実在へ目が向けられることになるのではなかろうか。

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