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誰かを傷つけたいという衝動

誰しも、本当は心の何処かにあるんじゃないだろうか。
誰かを傷つけてしまいたい、と思う時が。

そんな心の動きはなんとも虚しく、黒く、「良くない」ことで、
そんな感情からは目をそらす。
人に優しく、愛を持って、楽しんで、穏やかに。
そんななんともピースフルな感情こそが美しいとされるから。

誰かを知らず知らずに傷つけることはあれど、
「誰かを傷つけたい」という衝動のもと、動くことは
そんなにないのではないだろうか。
けど、確実にあるこの感情。
他の人の心を覗いたわけではないから、
絶対なんて言えないけれど、少なくとも私の心にはある。

こいつより上でありたい、とか、
自分を誇示したいとか、
相手への憎しみとか見下し、とか
たくさんの感情があいまって人を傷つけることがある。

一般的にこういった感情は、
共通の仮想敵がいるときに放出する。

政治家や芸能人に対して、社会制度に対して、クラスの嫌われ者に対して。
「攻撃すること」こそが正義であり、善であると一見、見えてしまう状況。
みんな薄々、自分のしていることが醜いことかもしれないと自覚はある。
けど集団の一部である以上、自分の「悪」は小さく感じる。比較的。

一対一の場合、相手を傷つけたとき、その感情の裏側には
「傷つけてやろう」と思ったことを否定しにくい。
けど、仮想敵に向かっているときは、その自覚は薄らぐ。

けど、本当に善意とか、思考力不足から発言はしないだろう。
根底にあるのは隠している黒く思える感情だ。
「誰かを傷つけたい」という思いとか、
行き場のないように思える負の感情とか。

正直、私自身はこの感情自体は悪いと思わない。
人間だし、そんな感情はあるし、自然だ。
むしろ人間が人間らしくあるためには、
感情において正も負もある起伏の多い方が魅力がある。
だからマイナスと捉えられる感情自体は歓迎しても良いと思う。

まあ、誰かを傷つけたい、と思う感情の裏には
その対象とは少し離れたところにある自分自身の不安定さがあると思う。
愛されて、自分自身を愛して、満たされているときに
他を傷つける必要がない。
他者と比較して自分の価値を確かめようとする衝動なんかは
満たされていないからだと思う。
いつでも満ちている人なんかは珍しく、だから、
満ちていない不安定さからくる他者への攻撃心はある意味、自然だ。

自分を満たして上げようとすることは必要だとは思うけれど、
満ちていない自分を悲しむ必要もそんなにはない気がする。
いつだって未熟なのが常々だ。

ただ、満ちていないときに生まれた
人を傷つけたい、人と比較して優位に立ちたいという感情を
実際に行動に移すかは大きな問題だと思う。

私自身、もちろんできた人間では到底ないので
人を故意に傷つけることがある。多分人より数も多い。
だから偉そうなことはもちろん言えないけれど。

なぜこの記事を書こうと思ったかというと
5月に芸能人の方がネットの誹謗中傷によって命を絶ったからだ。
このことなんかは心が満たされていない人が、
ネットかつ大勢のうちの一人として罪悪感がかなり薄れた状態で
人を傷つけたいと感じ、かつ行動に移したからだろう。
実際に番組見て、あーだこーだ言っていた私は
直接言葉をネットで書き込むことをしていなくても
社会的現象を助長する一人だったと言える。

満たされていない時、負の感情を持つのは自然だ。
けど、その背景にある自分の心の欠落に目を向けられたら、と思う。
そしたら、思ったこと自体は否定せずとも、
人を傷つけるという行動に移さなくてもいいのかもしれない。
大多数の一部であるときも少し想像力を働かせてみるといいかもしれない。

未完全な私は歓迎で、完全である必要なんかはない。
けど、もっと思いやりのある人間になれたら、と思う。

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