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京阪の君

 やはり今日に至っても葛西君の気は晴れないらしい。ビールを飲むのかワインにするか、以前のように女でも誘ってみるか、こちらからの提案に対して様々な表情をするものの、それらにはすべて否定的な趣があった。
折角の暑気払いで連れ出したというのに、その釈然としない態度には呆れるばかりである。梅田駅は今日も人混みで溢れていたし、適当にでもどこかの店へ入らなければ、シャツの染みはより一層酷くなるだろう。だがそんな私の感情を、今この男に押し付けるのは公平ではない。かつて彼の救い様のないさまを、あくまで私は面白がって見ていたのだから。

 二年前、天神祭が終わり旧淀川の周辺が落ち着きを取り戻した頃、中之島図書館からの帰路に京阪電車を利用した。自宅は靱公園の付近にある為、終点の中之島駅までの移動となる。それでも僅か五分程度の乗車時間にしかならない。勿論、歩いて帰る事も考えてはみたが、朝テレビから聞こえて来る、その日の最高気温を読み上げるアナウンサーの声、それを思い出すだけで足が動かなくなるのは仕方がない事である。
大川は中之島を挟むと堂島川、土佐堀川という名前に変わる。二つの川は中之島プラザを越えた辺りで再び仲を交え、安治川という名を与えられた後大阪湾へと流れ出る。大阪を走る河川は、その中心部を心臓に例えて複雑怪奇に入り乱れる血管の様であるが、水辺が身近にあるにも関わらず、気温が年々上昇傾向なのは、近年の大阪人が持つ感情が昂っているからに違いない。

 なにわ橋駅で電車に乗った際、同じ車両の隅に見覚えのある横顔がちらりと見えた。その特徴的な顔つきから、すぐにそれが葛西君だと分かった。よほど声をかけようと思ったが、彼とぴったり背中合わせで立つ女性の姿が目に入ると、出しかけた呼び声を引っ込めた。
由美ちゃん、と私が常々呼んでいたその女性は葛西君の交際相手であり、つまり二人はどこかデートにでも行くらしい。両方の顔見知りである私が声をかけても、何ら都合の悪い事はなかったが、カップルがわざわざ背中合わせで電車に乗るという状況が普通だとは思えないし、この猛暑の中で痴話喧嘩の仲裁に入るなんて事になれば相当に面倒である。
手元の携帯に視線を落とした私は、ニュースアプリから寄せられた一つの記事に目をやった。
『オウム真理教事件 死刑囚全員の死刑執行が完了』

 盆を待たずして彼から連絡が来た。阪急梅田のビアガーデンで待っているとの事である。夕方とはいえ八月の熱気は凄まじいものがあり、額から汗を流しながら到着した私を待つのは、ビールジョッキ片手に涼しい顔の葛西君である。「こんな暑い日に、よくこれだけの人数が集まるなぁ」と、調子が良いことこの上ない。所詮考える事は皆同じなのだ。
テーブルを挟む我々の間に、積もる話などはあった試しがない。月に数回のペースで顔を合わせているのだからそれも必然であるが、従って会話といえば「七月の暮に中之島線で、お前の姿を見かけたよ」などという挨拶程度の物しかない。しかしその話を聞いた途端、大袈裟に目を見開いた葛西君は、待ってましたと言わんばかりにビールジョッキをテーブルに置いて「俺の後ろに立っていた女を見た?」と大きな声で私に尋ねる。脳裏に、髪を後ろで纏めた由美ちゃんの横顔が浮かび上がった。寝ぼけているのかと、ツッコミを入れようとしたその言葉を遮り、その娘は可愛かったか、どんな服を着ていたか、近くに彼氏と思われる男はいたか、と矢継ぎ早に質問を繰り出す葛西君の顔は、酒に酔ったのか初恋をした少女の様に紅潮している。
どうやら彼と由美ちゃんが痴話喧嘩をしているというのは私の勘違いであり、自分と背中合わせになった女が、偶然同じ車両、同じ位置に乗り合わせた自らの彼女であるという事に、彼は気付いていないらしかった。彼を擁護するつもりはないが、状況を考えれば致し方ない事である。あくまでも、ここまでの話においては。

 目の前に座る男は、勝手に観念してその口を開く。彼はその女性から背中越しに伝わる体温、正面の窓に反射した髪型、吊革を持つ手の形に心底魅了されたらしく、その想いは日増しに大きくなる一方なのだという。実際にその女は自分が好きになった相手なのだから、例えそれが背中越しであるにせよ好意を持つのは道理に合っている。しかしながら、今回の好意は相手を間違えれば目も当てられない事態となる可能性があり、それを一目惚れなどと抜かす男の姿は、救いようもない大間抜けである。
結論から言えば、私は真相を語らずにビアガーデンを後にした。あまりに馬鹿馬鹿しい話であったし、彼が言う一目惚れという想いがいつまで持続するのか、若干の興味もあった。
視覚から伝わる現実を凌駕し、飽きが来る直前に甘い蜜を垂らす。それが幻想の妙であり、虜にされた人間がいかに滑稽であるかを、彼はその身をもって体現している。

 些細な好奇心が、二人の間を割く事となれば、それはそれで後味が悪い。以降も口を開けば、京阪の君に後ろ髪を引かれている彼の姿を横目に、いよいよそれが真実味を帯びて私にのしかかってくる。ただ一言で解消されるべきであった筈の話が、彼の懐疑的な心をくすぐり、よもや幻想への想いを加速させてしまうのではないかという思考から、それは一種の恐怖心に姿を変えてこちらに迫るのである。私の思考も、ある意味現実を凌駕しているに違いない。だがそんな考えは杞憂に終わった。
彼等はその一年後に入籍し、私は複雑な想いを胸に隠しながらも、結婚式で友人代表のスピーチをした。どの様な内容だったか、今となっては覚えていない。ただ彼女は子を孕んでおり、それに触れるか触れないかという事で随分と悩んだ記憶がある。私が苦心して悩んだ結果かは分からないが、去年の冬に産まれたその子供は、四キロもある元気な女の子だった。
 
 私の妻は、葛西夫妻と昼食を共にすると、彼等を羨望の的にしてこちらへ無言の圧力をかけてくる。由美ちゃんもその雰囲気を認めると、子供にミルクを与えながらその姿をもって妻を煽るのだから困ったものである。だが正直なところ、私の心は大きく揺れ動いていた。妻の圧力に負けた、という事ではない。
予約した店がある天満橋までの移動の際、二年前の夏と同じ様に京阪電車に乗る彼等は、自然と互いに向き合い、背中からではなく正面で彼女の体温を、子の幸せを胸一杯に感じ取っていた。そんな姿を私に見せるのは、多少気恥ずかしくもあった筈だが、それでも彼の特徴的な横顔は、あの大間抜けではない、立派な父の顔へと変わっていた。そんな姿に心打たれるのは私だけではないだろう。

 だから今日、彼が釈然としない態度を取り、こちらの提案に否定的な表情を見せ、幾度となく聞いた女の幻想を追い求めようとも、私はそれを一切責めまい。ビアガーデンの椅子にでも腰を据えて、並々とビールが注がれたジョッキ片手に、終いまで全て聞いてやろう。
例えその想い人が京阪の君であったとしても。

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