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牛窓ホテルにて

 岡山県東部に位置する瀬戸内市、その名が示す通り瀬戸内海に面したこの街にあって、日本有数の避暑地として名を馳せる牛窓地区。高台に上がって見れば、一年を通して大きく荒れる事のない天候、そして温厚な海に浮かぶ小豆島、前島、長島。手前のヨットやボートに乗る連中の姿は、そんな小島から少し離れた場所にて隆起する岩の様子を成して、寝転がって休憩する者と太陽の光を全面に受けるべく、精一杯身体を伸ばす者に別れている。いわゆる別荘持ちの彼等から言わせれば、陽が上がり切ってしまった後に此処へ訪れる私の行為はナンセンスという事になるのだろうが、上手く波に乗る事が出来ない自らの身体を呪った試しは、幸か不幸か一度もない。

 娘からその話を聞いたのは、去年の秋の暮れである。彼女の就職先が決まったという連絡を受けての久しぶりの再会だった。私は神戸にあるホテルのレストランを予約して、髭を剃り、祝儀袋をジャケットの内ポケットに入れて自宅を出た。店の受付横で私を待つ一人の影。娘は以前とあまり変わらない出で立ちで、それでも顔付のみは社会人として取り繕って来たかの様な表情をして、私の方を向く。
「お母さん同棲するんだって。知ってた?」
「知らない。相手はどんな人だろう」
「言ってもいいのかなぁ。あのね、そういう話は直接聞いてくれない?」
私はつい黙ってしまう。彼女の言う事があまりに的を得ていたから。話題を変えようとして、どこに就職するのかと此方が問えば、娘はつまらなそうに今自分がいる場所を指さした。
「このレストランに就職するの?」
「ううん、ホテル」
「ポートピアホテルかぁ。良いじゃない」

「違う違う。同じホテルでも、岡山の田舎にある小さいやつだから」
気が無く頷いた私ではあるが、彼女がホテルの受付に立っている姿や、クローク係として働いている姿が、正直全く想像出来なかった。興味の矛先が天気の様に変わる様を隣で見ていた私にしてみれば、そう考えるのも当然なのかもしれない。食事を終えた我々は三ノ宮まで車で移動し、名残惜しそうに此方へ手を振る娘を帰路に就かせた後、一人になった私は道の片隅に車を停めて考え事をしていた。元妻の同棲についての事である。普段より連絡する機会に乏しい我々の関係で、急に相手についての話を切り出す事は不可能な気がした。むしろ、向こうからの連絡が有っても良いものだが、便りが無いという事はまだ具体的な話となってないのかもしれない。中年の男が思考の中から僅かな希望を手探りで掬うこの姿は、相当見苦しい物だったに違いない。娘に渡す筈だった祝儀袋を、未だポケットの中に入れている事にすら、私は気が付かなかったのだから。

 ホテルの正面に車を停めた私を、小綺麗な制服に身を包んだ娘が出迎えた。眩しそうに手で陽の光を遮る彼女は「あたしが停める」と言って、車のキーを此方に寄越せという素振りを見せた。通常車の駐車を代行するサービスはない様だが、遥々訪れた自らの父に対する感謝の気持ちらしい。彼女は、驚く程、長い時間をかけて、その車を見事駐車した後、一仕事終えた様な顔をして此方へ戻って来る。
「勝手な事したら先輩に怒られるよ」と言うと、元妻に似たのか気丈な彼女はそれを無視して、スタッフルームへ行ってしまった。
当てなくホテル内をぶらぶらしていると、全面白で覆われた壁、正面に見える瀬戸内海の優雅な波、それを一望出来るバルコニーなど、どうもこのホテルは地中海沿岸の街をモデルに建てられたらしい事が分かる。パンフレットを手に取れば、牛窓から見える一面の景色を日本のエーゲ海として表現している辺り、その考えは間違いなさそうだった。
各リゾート地にある大手ホテルチェーンの様な巨大な物ではなく、小ぶりな建屋が幾つも集まって出来たその作りは、確かに人をリラックスさせる効果があるのだろう。他の宿泊客に混じって、プールサイドのデッキチェアに寝そべっていた私は、午後五時頃の肌寒くなった気温にも関わらず、ついうたた寝をしてしまった。

誰かが、自分を呼んでいる......。
何処かのビーチで、小さい子と手を繋ぐ女性の後ろ姿。正面に回り込んでその顔を、表情を見る事は出来るのだろうが、私にその資格はない。我々は別れるべくして別れたのだ。だから後悔や悲壮感といった物はあまり感じられなかった。しかし、この子はそういう捉え方をしないだろう。まさか自分の大学受験という大事な時期に、自らの両親が離婚する事など露も知らない、その幼い子の後ろ姿は、それでも無邪気に波打ち際まで駆け寄り、砂浜に足を掬われて正面に転ぶ。笑いながら此方へ振り返ったその表情に、私は何度目を背けたか分からない。

––お父さん、恥ずかしいよ。
娘はそう言って、私の肩を叩いた。目を開けると陽は既に落ちており、プールサイドの周りが蛍光灯でライトアップされていた。どうやら二時間程寝てしまったらしい。他の宿泊客が部屋に戻った後も、ただ一人寝転び続ける私の姿を同僚に笑われた、と仕事終わりの彼女は文句を言っていた。
我々はホテル内の小さなレストランで夕食を取った。店へ入る際、受付に笑みを浮かべながら軽く会釈をした娘を見て、私もそれに倣う。
私は一泊このホテルで宿泊する予定だが、彼女は一度自分のアパートへ戻り、明日の朝再び出勤してくるらしい。
「こんな小さなホテルじゃ噂なんかすぐ広まりそうだね」
「噂?どんな?」
「誰かと誰かが同棲してる、結婚した、とか」
「そうだねぇ。離婚した!とかね」
去年の食事会と同様黙ってしまう私を見て、娘は笑った。口の中に砂利が入った感覚がある。
「でも、あたしはまだ皆にバレてないみたい」
「彼氏でも出来たの?」
今度は娘が黙る番だった。ただ私の時と比べ、その落ち着いた笑みからは、大人の女の余裕が垣間見えた。
「実はね、同棲してるんだ」
「あ、そう......。どんな人?」
「お母さんと」

 娘の話によれば、このホテルに就職を決めた彼女の提案で、二人は仲良くこの瀬戸内市まで越してきたらしい。呑気な話である。どうやら元妻の同棲相手というのは、正面に座る娘の事だった様だ。一杯食わされた気分の私を、潮を含んだ夜風がサッと冷ました。安堵の風。そんな心地よい雰囲気の中で、以前渡せなかった祝儀袋をテーブルの上に置くと、彼女は大いに喜んだ素振りを見せつつも「あたしはもう帰るから、渡しておいて」と言って立ち上がった。

––渡しておいて?
背後から聞き覚えがあるヒールの音を認めた。
此方に向かう足音に緊張しつつも、私から掛けるべきその第一声を頭に思い浮かべる。
久しぶり、か。それとも......

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