見出し画像

夏の準備は風見鶏

 長らくご無沙汰をしてしまいました。というのも、あなたから教えて頂いた素敵な場所が、あまりに心地のよいものだから、本当であればもう色々と考え出さねばならない時分、つい僕は六月の雨音に酔いしれるかのような形で、そしてじきに過ぎてしまうでしょう梅雨の暖かな水滴の感触のみを記憶したままで、この手紙を書いているというわけなのです。
 従って、あなたから是非とお願いされた事項については、何の手もつけてはおらず……。
 恐らく「来年でも、再来年でも」などと簡単な返事であなたは終わらせてしまうでしょう。それこそ、こちらからの一方的な便りをもって返信不要の言い訳でもしなければ。

 駅のベンチというものが、これほど愉快だと思ったことはありません。出勤時、僕は下を向いてホームを静かに歩いている。休日、あなたとのお喋りを妄想しながら、浮かれた僕は改札からホームにいたるまでをスキップしていたのかもしれない。そして、あなたとの過去が甦る梅雨の日、僕はこうしてアテもなく改札を通り過ぎ、ただ人々の往来を眺めている。

 ──夏の準備は風見鶏。
 はて、誰の言葉だったでしょう。僕はあなたから聞いた気がするが、何故だかこちらから口にした覚えもあるから不思議だ。
 あまり気張らず、風の意に耳をむけた後、夏のゆくままに夏を生きてゆく。
 そうやって、我々はどれだけの夏を、夏たちのゆくままに生きてきたのだろう……。
 いまでも神戸の街では、風見鶏が乾いた音を鳴らしているのでしょうか。駅のホームから、遥かなる港町を想像した際、身についた水滴を飛ばす、彼らの淡い羽音が聴こえたのでした。


 さて、そろそろ行かねばなりません。
 大切な用事があるのです。夏の準備という、あなたを迎えるための大切な用事が。そうして我々が夏のゆくままに生きた夏……、あなたがお気に入りだった駅のホームにて、今年こそは流し素麺を実現したいなどと、風の意に反して気張ってしまう僕なのでした。

 神戸を発つとき連絡ください。
 ホームの端で待ってます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?