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【第1話】私の記憶の中の物語を始めます。ソ連の学校に入る前の小さい頃の記憶(1974-1982)

私の名前はアセリ。1974年に、その16年後にはなくなってしまったソビエト社会主義共和国連邦を構成する15の国のひとつ、キルギス・ソビエト社会主義共和国で生まれたキルギス人です。
そこはユーラシア大陸のちょうど真ん中あたり、中央アジアの東側、標高4000m級の白い山が連なる景色が日常にある自然豊かな場所。

2020年の今、世界はひとつのウイルスの出現により、昨日までの日常が日常でなくなるという経験をしています。
こんな時に、私は私が生まれ育った今は存在しない「ソ連」という国のことを思い出しました。
今後を生きるための何かの参考になるかは分かりませんが、私の子どもの頃の記憶を少しずつ思い出しながら、物語をここに書きます。

2020年4月 Asel N.
(日本語作成 Aya)

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私が生まれ育ったアク・チューズという町は、地図に載っていない町だった。

キルギス・ソビエト社会主義共和国の首都フルンゼ(現在はビシュケクという名前になっている)から幹線道路を東へ100km、さらにそこから北へ向かって徐々に高度を上げながら40kmほど山道を進んだ行き止まりの場所に突然現れる人口3000人の町、アク・チューズ。

標高は2300m、長い冬の寒さは厳しく、短い夏の清涼さは格別。万年雪の積もる荘厳な山々からは絶えず水が沸き、川が流れていて水が豊かな場所。

山が有名で、プロのアルピニストが登山に来たり、スポーツ選手が高地トレーニングをしに来ることもあった。観光地ではないけれども、彼らのために、二階建ての大きなホテルもあった。

山の斜面にへばりつくように建てられた巨大な工場がこの町の産業の中心で、そこで働く人々が暮らすアパート、保育園や学校や食料品や日用品のお店、子どもたちが遊び大人たちも集う広い公園、集会所やレストラン、スケートリンクなど、暮らしていくために必要なものは全て揃っていた。

実は、アク・チューズには鉛が豊富に採れる山がある。私が生まれる前にあった大きな戦争で使われた全ての弾丸の6分の1にはアク・チューズ産の鉛が使われていたそうだ。
それだけでなくて、レアメタルもたくさん採れる。これは宇宙開発系の何かに使われる素材だったらしい。セシウムも採れた。よくモスクワから専門家のような人達が来て何かの測定をしているのを見たことがある。

だから、他に知られることがないように、モスクワの本部はこの町を地図に載せなかった。
ソビエト社会主義共和国連邦の国家戦略上、とても重要な秘密の場所だった。

(写真)1992年頃撮影されたアク・チューズの町

そんな特別な町だったので、色々な生活必需品がモスクワからどの街も経由せずに直接届いた。私の父はその届いたモノを管理する責任者の仕事をしていた。そのせいか、なぜか私の家には食料などの生活必需品だけでなく、洋服やお菓子、家電製品、色んなモノが溢れていた。

キッチンの戸棚を開けると、コンデンスミルクの缶が積み重なっている横にお菓子の箱が積み重なっていているという、子どもにとってはとても素晴らしい状態。
私は一箱ずつ開けて中身をチェックして、その中から一番好きなものだけ選んで食べる。チョコレートが大好きだったから、たくさんあるチョコレートの中から自分が好きなやつだけを選んで食べる。それだけでお腹いっぱいになるので、甘いものは例え他に飴があったとしても要らないから食べない。

夏になると、私と弟の部屋のベッドの下には、スイカがゴロゴロと何個も置いてあって食べ放題。中央アジアのスイカは、乾燥している気候と夏の真っ直ぐな太陽の光を受けて、甘さとジューシーさが世界一。
丸いスイカを真ん中で半分に切って、それ以上細かくカットなんてしない。弟と2人でほじって頬張りながら、その甘くて良い香りに酔いしれる。

でも、私が小さい時に両親が離婚したので、その後、父のいない暮らしになってからはモノは溢れていない「普通の」暮らしになったけれども。

私が母と弟と妹と一緒に住んでいた二階建てのアパートは町の中心部にあって、8部屋に8つの家族が暮らしていた。
私の家族はキルギス人。
隣の家族はグルジア人。またその隣や他の階には、ロシア人、ユダヤ人、ドイツ人、朝鮮人、ウクライナ人、カザフ人。お互いがそれぞれの民族の文化を尊重しながら仲良く暮らしている。

なぜたくさんの民族がいたのかは、子どもの私には分からなかった。というよりも、たくさんの民族がいる生活が当たり前なので、それ自体を疑問に思うことなどなかった。

私たちそれぞれ民族に色々なルーツがあっても、皆同じソ連人だから、ソ連の考え方を共有しロシア語を当たり前に話す。だからコミュニケーションに何も難しいことはない。違う民族同士の夫婦も当たり前にいたし、それは何も特別なことではなかった。

(写真) 私たちはこのアパートに住んでいた

でも、なんとなく覚えているのは、車で30分の距離にある私の祖母が暮らしている国営農場をやっている町に行った時のこと。
そこはキルギス人の割合が多くて、私はロシア語を日常的に話していたからキルギス語があまり話せないことについてその町の子どもたちにいじめられた。
その反面、ロシア語を自在に話す私を都会から来たような人として憧れの目で見られていたのも事実だった。

私たち家族が暮らしていたアパートの部屋のドアはいつでも開けっぱなしで、玄関に呼び鈴なんてついていないし、ドアの鍵を閉めたことなんて一度もない。
冬だって、部屋のドアは開けっぱなし。町の暖房のシステムは、アパート一棟を丸ごと温められるように集中暖房になっていて、外はマイナス20℃でも建物の中は半袖で過ごせるほど暖かい。

ご近所同士の用事があれば、誰かが家にやってきて、開けっぱなしのドアから部屋の中にいる誰かに向かって名前を呼ばれる。子ども同士なら、友達の家を自由に行き来して遊ぶ。「アセリーーー!!家にいるの?遊ぼうよ!!」って、近所の友達は玄関から私のいる部屋に入ってきて遊びの誘いに来た。それが日常だった。

私の子ども時代は、とても子どもらしく過ごした。
毎日毎日、暮らしていたアパートの近くの公園で、近所の友達と一緒に好きなだけ走り回ったりボールを投げたり遊具に乗ったりして、外が暗くなるまで夢中で遊ぶ。夏になると夜の8時ぐらいまで外が明るいから、もっと好きなだけ遊ぶ。それをベンチで見守る大人達も、ああでもないこうでもないと延々と世間話を楽しそうにしてるように見える。

テレビはあったけれど、国の関係の偉い人の単調な会議の中継や、どこかの工場や農場の業績を褒め称える番組や、たまにはコンサートや映画も放送されていたけれども、子どもだった私にはなかなか理解出来ないし、つまらないものでしかなかった。

けれども、毎週日曜日の昼1時からの10分間だけは違った。
いつものように公園で友達と遊んでいると、
「子どもたちーーー!!!始まるよーーーー!!」
と、アパートの部屋の中にいる大人の誰かが必ず窓から顔を出して大きな声で叫ぶ。

すると、私も他の子どもたちも一斉に遊ぶのをやめて、自分の家や友達の家のテレビの前まで我先にと猛ダッシュ。一気に子どもたちのいなくなった公園には誰もいない。さっきまでの喧騒が嘘だったかのように静まり返る。
そして、週に一回だけの子どもの楽しいテレビの時間が始まる。
それは、子ども向けのアニメ!!

テレビは家によってカラーのものと白黒のものとが混在していた。当然、カラーテレビがある家に行ってアニメを見たい。
ソビエトのアニメは、絵が色彩豊かで美しくて、オーケストラやバンドの演奏の音楽が芸術的。チェブラーシュカやオオカミとウサギ、猫や犬やタヌキやふくろう、同い年ぐらいの子ども、色んなキャラクターが登場する。子どもが理解できる簡単なストーリーだけれども、内容が意外と哲学的だったりして、本当に素晴らしいアニメ。

この日曜日のアニメの10分間は、私の体感では10秒ぐらいの短さに感じられるほど夢中になる時間だった。
そして、テレビのアニメが終わると、またあっという間に私は友達と一緒に外へ遊びに散っていく。

(写真) ソ連製のテレビ

1982年の9月、7歳だった私はこの町で「アク・チューズ第一学校」の1年生になった。
この当時の学校は10年制で、一度入学したら卒業するまで10年間同じで学校へ通う。
「アセリ、入学おめでとう!」と、家族はもちろん、近所の皆も嬉しそうに祝ってくれた。
そして私は子どもながらにもソビエト社会の一員としての第一歩を踏み出したのだった。


-------- 第二話へ続く ---------

第二話 優等生の証「ピオネール」に憧れて


※この文章はアセリの記憶の中の物語です。事実とは異なる点がありましても予めご了承下さい。

【おまけ】
ソ連のアニメはYouTubeで見ることができます。当時は1週間に10分しか見ることが出来なかったのに、今はいつでも好きなだけ見ることが出来る!!

◾️ヌ パガディ!(今に見てろよ!)
オオカミとウサギの「トムとジェリー」のような話

◾️プラスタクワーシナ
チェブラーシュカと同じ作者の大人気アニメ。

◾️ヴィンニィ プーフ(くまのプーさん)


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