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【第3話】 民族のお祭りの日の美味しい思い出と無宗教 (1986年〜1988年)

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〔第2話までのあらすじ〕
私の名前はアセリ。キルギス・ソビエト社会主義共和国のアク・チューズという地図に載っていないソ連の秘密の町で1975年に生まれた。
レーニンのような立派な人になりなさい、と大人たちから言われて育ち、10歳で優等生の証であるピオネールに選ばれて、学校の先生の言うことをよく守り、勉強をし読書をし、大人になったらソ連という国のために働く人になるんだ、と思いながら、とにかく真面目な子ども時代を送ってきた。

私が母と弟と妹と一緒に住んでいた二階建てのアパートには、8部屋に8つの家族が仲良く暮らしていた。私の家族はキルギス人。隣の家族はグルジア人。そのまた隣や他の階にはロシア人、ユダヤ人、ドイツ人、朝鮮人、ウクライナ人、カザフ人。皆ご近所さんとして仲良く暮らしている。
私にとって、たくさんの民族が一緒に生活をしていることが当たり前だったから、それ自体を疑問に感じることなどなかった。

私たちの国籍はソ連で、みなソ連人。
ソ連は世界一大きくて強くて正しくて、国民を大切にして幸せにする国。
東ヨーロッパの国々やキューバやベトナムが社会主義国家になることにソ連は貢献してきたし、宇宙開発や科学研究については世界一の技術があるし、製造業の技術も高くて生産量は世界一。周りの大人たちはそうやって誇らしそうに話すし、実際にテレビや新聞でも私たちの国であるソ連の素晴らしさについて生き生きと報道されている。
ソ連人であることが私たちのアイデンティティそのものだった。

(写真) アク・チューズの町の天然の氷のスケートリンク

でも、ソ連人だけれども、それぞれの家庭の中では、それぞれの民族の伝統的な文化のある生活をしていた。
当たり前だけど、いつのどの時代でも、国籍と民族はイコールではない。

外に出れば共通語のロシア語を皆話すけど、家の中ではそれぞれの民族の言葉を話した。
けれども、学校教育は全てロシア語だし、仕事に行ってもロシア語だし、テレビも新聞も本もロシア語だし、街の中の看板や商品のパッケージもロシア語だし、何でもロシア語だから、私たちはだんだん民族の言葉を忘れるし、必要とも感じなくなってくる。
ソ連人だから、ロシア語が一番必要だって、誰もが思っていた。

私がすごく覚えているのは、それぞれの民族の長い歴史の背景にある宗教に関する祝日に、近所のみんなでお祝いをしたということ。
特に、子どもの私が毎年楽しみにしていたのは、イスラム教のラマダーン(断食)明けの日の祝日と、正教会の復活祭の日。だって、美味しいご馳走やお菓子を近所の人がいっぱい作って振る舞ってくれて、美味しいものがたくさん食べられるから。大人たちもいつもと違ったテンションでワクワクしてて、そんな雰囲気もすごく好きだった。

キルギス、カザフ、ウズベク、ドゥンガンなどの民族にはイスラムの文化がある。
ラマダーン(断食)の終わりの日の祝日には家の中でお祭りをする。断食は誰もしないけど、お祝いはする。
キルギス人の私の家でも、母が「ボルソック」や「サンザ」という小麦粉を捏ねて揚げたお祝いの料理をたくさん作って、近所の人が家に来ると他の料理と一緒に振る舞う。カザフ、ウズベク、ドゥンガン人はもちろん、グルジア人やロシア人やウクライナ人の友達がうちに来て「アセリ、ラマダーン(断食)明けおめでとう!」とみんながお祝いの言葉を私に言ってくれる。繰り返すが、「断食」はしていない。

(インスタ) テーブル奥の麺状のものが「サンザ」手間の四角いのが「ボルソック」

ロシア、ウクライナ、グルジアなどの民族には正教会の文化がある。
十字架に架けられて死んだイエス・キリストが3日後に復活したとされる復活祭(イースター)の日に、彼らが作った「クリッチ」というカラフルな甘いパンや、カラフルな絵がついたゆで卵を配っていて、毎年それを貰うのが楽しみだった。私は必ず「復活祭おめでとうございます!」と言って受け取った。ちなみに、「何が」「復活」したのかは大人たちが詳しく教えてくれなかったので、よく分からなかった。

(写真)  復活祭の日の「クリッチ」という甘いパン

お祭りの日だけでなく、お葬式もそれぞれの文化でやり方が違った。
キルギス人は、家の前にボズウイ(ユルタ)を建てて、亡くなった人をその中に入れて安置する。ロシア人などは正教会のやり方で、亡くなった人を自分の家の中に3日間安置する。
お葬式はたくさんの人が集まるから色々と準備が大変だけど、どの文化のやり方でも、自分の文化とは違うやり方でも、ご近所同士で仲良く手伝いをした。

ところで、ソ連では、宗教は禁止されていた。

学校で私は「宗教」という概念を習った記憶はない。世界には色々な宗教や信仰があるということも習っていない。そのかわり「宗教とは阿片のようなものだ」というカール・マルクスの言葉を習ったぐらいだ。
レーニンのような人になることを一生懸命目指している子どもの私に、その言葉にはどんな意図があるのか、考えることはなかった。

私は5年生の時、放課後のクラブ活動で「無神論」というクラブに入っていた。無神論はソ連人としてとても重要な教養だったので、ピオネールだった私はなんとなくこのクラブに入った。
このクラブでは、神様がいないことを証明するための理論をたくさん教わった。マルクス主義や唯物論の考え方を覚えたりしたけれども、結局、覚えるには難しすぎて、だいぶ苦戦した。本当に難しかった。
そのかわり、神様はいないし、その話はするべきではない、と子どもながらに理解した。

(写真) アク・チューズの町の中心地

家族の中でも友達同士でもご近所同士でも、神様や宗教の話をすることはなかった。イスラム教の話も学校ではもちろん、大人たちからは聞いたことはなかった。
けれども、ラマダーン(断食)の終わりの日には「今日はお祭りだよ」と言われた。なぜ今日がお祭りなのかという理由は詳しく教えてもらっていない。
でも、大人たちが何か床に座りながらお祈りのような言葉を言っていたのを少し見たことがある。不思議な光景だった。

毎年のラマダーン(断食)の期間は太陰暦に基づいているので、日程が毎年違う。さらに開始日の新月の観測によっては1日ほどずれたりするので、ラマダーンが終わる日は毎年タイムリーに把握していないと分からない。宗教が禁止されているソ連で、誰がそれを正確に把握していたのか、、?

子どもにはあえて分からないように、大人たちは何か大切な「祈り」を持ち続けていたのではないかと思う。それは直接言葉で伝えることは出来なくても、行いをやって見せることを繰り返しながら伝えたいことがあったのかもしれない。
私の祖母は、新月の日になると、新月に向かって3回お辞儀をしていた。その時の祖母の敬虔な姿は、とても印象的だった。あれも、私が学校では教わらなかった「祈り」というものだったのだと思う。

この時の大人たちのおかげで、私は神様はいると信じている。

1987年、私が6年生の時になると、私たちの町アク・チューズにある大きな工場がたまに動いていないのではないか、という噂が流れた。本当のことは誰も分からないし、ニュースにもならないので、実際に工場で働いているご近所さんたちの話が情報源だった。
山から鉱物資源を採掘して、それを精製する工場だったのだけれども、精製するために必要な材料が町に入って来ないので、工場を動かすことができない、ということらしい。

それだけでなく、日常生活に必要なモノが少しずつ手に入りにくくなってきた。それは突然そうなったのではなくて、少しずつそうなった。
ゆっくりと時間をかけて、毎日買うことの出来た肉や卵が3日に1回になり、そのうち週1回になり、1年前と比べるとそういえば手に入る回数が減ったな、と気付く程度。少しづつ変わることに関しては、意外と気付かないことが多い。

「大丈夫だよ。心配ない。」周りの大人たちは皆そう言った。
子どもである私のことを心配させないようにそう言っていたのかもしれない。でも、私は子どもだったから、大人たちに大丈夫だと言われると本当にそう思うし、今の状況を疑問に感じることもなく、私は学校に毎日行って勉強を頑張って、真面目な優等生として生活を続けていた。

1987年に6年生だった私は、翌年の1988年に8年生になった。
なぜ7年生を飛ばしたのかというと、国の制度が変わって、学校教育が10年制から11年制に変わったからだった。だからこの年に学校に通っていた子どもたちは全員次の学年を1年飛ばして進級した。
この頃はコルバチョフの改革が社会へ様々な影響を与え始めていたようだ。大人たちがテレビでよく国会のようなものを見ていて、何か様子がいつもと違った。そして、アメリカのレーガン大統領の名前をよく聞くようになった。

そんな中、1989年の10月、14歳だった私は、レニングラードへ旅行に行くことになった。

私の通っていた「アク・チューズ第一学校」では、毎年秋になると大きい学年の子どもはレニングラード(現在はサンクトペテルブルクという)へ修学旅行に行くことができる。
これは誰でも行けるわけではなく、旅費の自己負担があるのに加えて、選ばれた生徒しか行くことができない。

成績優秀であることは必須条件で、それ以外に家庭の状況や親の態度なども選ばれる要素にある。私の家は両親が離婚していて母しかいないひとり親家庭だったため、残念ながら当時は社会的に評価があまり良くなかった。
でも、「アセリにどうしてもレニングラードに行って欲しいの。」と、母と祖母が色々と頑張ってくれて、お金も出し合ったりしてくれて、私は何とかレニングラード行きの生徒に選ばれることが出来たのだった。


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2020年8月、このお話を書籍化しました!

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【おまけ】

文中に出てくる「ボルソック」は小麦粉をこねてイーストで発酵させたパン生地のようなものを、薄く伸ばして3×2cmぐらいのサイズに切って油で揚げたものです。遊牧民の伝統的な料理で、今でもキルギス人の冠婚葬祭の席には欠かせない大切なものとなっています。
そのまま食べても美味しいし、ジャムやハチミツをつけて食べてもいいけど、「カイマク」という発酵した生クリームにつけるのが一番おすすめです。キルギスに来たらぜひ「カイマク」で「ボルソック」を食べてみてください。


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