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差別と個人主義

皆が平等で差別がなく、自分が自分でいられる世界。何も怖がらずに自分を表現できる世界。それが私のユートピアだ。きっと私だけでなく、多くの人が望んでいる世界だ。理想的すぎるかもしれない。イタい発言かもしれない。だけれども世界中で様々な状況下の人々と接し、曲がりなりにも歴史を学んだ者としては、それを願わずにはいられない。

しかし問題は、それをどうやって実現するのかということだ。外見でも政治的主張でも性的指向でも性別でも差別されない世界を作るには、どうすれば良いのだろう。現在の政治動向、世界で起っている様々なヘイト、行きすぎた正義の主張などを見ていると、その実現は一筋縄に行かないことを痛感する。

人類がずっと模索してきているこの課題へのヒントになり得る概念を、私はヒッピーたちのコミュニティで見つけた。ヒッピーコミュニティは、私が今まで暮らしたコミュニティ、または地域の中で圧倒的に最も多様で最も差別のないコミュニティだ。60年代の公民権運動や反戦運動の流れを組む人々のコミュニティなので、彼らが反差別的なことに驚きはないが、彼らはどのようにして差別のない平等なコミュニティを実現しているのだろうか?

平等なヒッピーコミュニティ

結論から言えば、多様で差別のないヒッピーコミュニティは、集団として団結するのではなく、互いを個として尊敬し扱うことで結果的にグループとして多様で平等な集団になっている。集団として多様性を追求しているのではなく、個を尊重するいわば個人主義的な態度をとることで、逆説的に集団の多様性が発展していくのだ。

集団としてのアイデンティティが存在すると、そのアイデンティティから少しでも外れると、その集団に属せなくなる。たとえその集団が多様性の尊重という共通のアイデンティティを持っていたとしても、多様性の定義は人によって変わるだろうし、多様性を少しでも否定する人の多様性を否定することになり、こうなれば滑り坂論のようにどんどん多様性の定義が狭まっていき、結果として多様な集団にはなれない。

個の尊重は、ヒッピー社会に特有な訳ではない。日本でも基本的人権が憲法で定められているので、個人の自由は保証されている。しかし、ヒッピーコミュニティでの個人主義および自由主義の概念は、他のどの場所よりも抜きんでている。そして私は、それはヒッピーと呼ばれる人々の根底にある思想と彼らのライフスタイルに基づいていると考えている。

ヒッピーの多くは、自分の信条に基づいて好きなことをやって暮らしていきたいと願っている。ヒッピーに限らず大概の人がそう思っているかもしれないが、現代においてヒッピーの思想は多数派とは言えない。彼らに対する世間の風当たりは、必ずしも優しくはない。それに加え、ヒッピーは薬物中毒者や浮浪者という好ましくないレッテルを貼られ、社会的にモテるわけでもなければお金にもならない、ステータスすら得られない。つまりヒッピーでいる利点は存在しないのだ。それでもヒッピーたちが自身の暮らしぶりを変えないのは、それが好きでそこに自身の信条があるからだ。彼らは世間全般が味方してくれなくても、自分で好きな生き方を選んでいる。全体主義に屈しない自身の個を自分自身で尊重している。

そしてこの考えは、他人に対しても同じだ。他人がどう生きようが関係なく自分は自分の考え方を貫いていくように、自分がどう生きようが他人にはその人がその人なりの生き方を貫く自由があると考えている。個人とその自由を最大限にまで尊重している。

このような思想を持った人が社会の様々な全体主義の同調圧力に嫌気が差して、そのパワーが及ばない場所で暮らし、独自の文化を形成していくようになった。そしてその集団を周りが「ヒッピー」と呼ぶようになった。決して「私たちは多様性を重視するヒッピーだから団結することにしました。」と集まったわけではない。個人が個人の好きなことをやって生きている人が、気の合う人と連んでいるだけであり、この集団でなく個人として互いを尊重することで、結果として多様性を生んでいる。

「集団」として見る怖さ

先ほども述べたように、全体主義には少しでもその集団のアイデンティティから外れた者は追放されてしまう怖さがある。そのアイデンティティが白か黒かではっきり分けられるものならまだ大丈夫かもしれないが、人のアイデンティティはもっと複雑でスペクトラムのようだ。ジェンダーや人種は人が作り上げた概念だから複雑に入り組んでいるし、政治的主張も白黒はっきり付けられないし、そう簡単に結論づけるべきであるとは思えない。

さらにその人の肌の色や性別、国籍といった「属性」で集団を分類してしまうと、もし当の本人がその「属性」を自身のアイデンティティとして捉えていなかった場合はどうなるのだろうか。

たとえば、私は国籍で見たら日本人だが、日本の文化や慣習に馴染んでいるかと聞かれればおそらくNOだ。国籍は日本だが変えようと思えば変えられる。日本人は私のアイデンティティのほんのわずかな一部でしかなくて、私を決定づけるものでは全くない。それにもかかわらず、私を「日本人」として見て、「日本人」の集団に分類し、「日本人」として振舞うことを期待されたら、それはとても鬱陶しいことで、「日本人」としての私ではなくて、純粋に「私」を見てほしいと思ってしまう。

ここで言っているのは、国籍を自身のアイデンティティにしてはいけないということでも、国籍は全く関係ないということでもない。単純に他人の表面的な属性だけでその人をある集団にカテゴライズすると、その人に対する誤解に繋がるということだ。

そういった誤解を無くすためにも、他人と個人として接していかなければならない。互いを個として見て接していくと、その人の「属性」がいかに無意味かに気付くようになる。名前、年齢、国籍、性別、人種などは全てその人の一部でしかなくて、必ずしもその人を決定づける要素ではない。個に重点を置き、属性を重要視しないヒッピーコミュニティには、このような表面的な事を気にしないからこそ、結果的に多様なアイデンティティを持つ人が集まっている。

対照的な二つのコミュニティ

私はジョージアにいた時に、この集団主義vs個人主義の多様性との関係をよく表す二つの対照的なコミュニティに身を置いていた。

一つは多様性を主張する人々が集まっていたホステルだ。「多様性」「フェミニズム」「LGBT」が彼らの合言葉だった。暇さえあれば女性の権利について語り、見るテレビも教育的な内容のものばかりだった。彼らは「いい」人たちだった。しかし「多様性」という言葉に囚われすぎて、日本人の私を「多様性の一種」としてしか見ていなかった。彼らは、彼らの多様性を象徴するマスコットかのように私を扱っていた。私がいつものように、日本とは全く関係のない奇抜な格好をしていたら「あなたは日本人だからそういう格好が好きなんだね」と言われ、私の彼と建設的な議論をしていたら彼に向かって「女の子に意見するなんて」と言っていた。さらにトランプ支持者の知り合いの話をしようとしたら、「トランプ」という単語を言っただけでもうその話はさせてもらえなかった。彼らは自分の定義する「多様性」を追求するあまり、全ての事象を多様性を通してでしか考えることができず、私の個性ですら彼らの考える「多様性」の中に埋れていった。偶然か必然かは分からないが、皮肉にもそのホステルで暮らしていたのは、日本人の私とバイセクシャルの私の彼氏を除けば、白人の異性愛者だけだった。

自分を自分として扱ってもらえないフラストレーションもあり、そのホステルを後にして他のホステルに移った。移動先のホステルは、私が夢に描いたユートピアのようだった。そのホステルには、この人たちがみんな仲良くなるのは不可能だろうと思わせるほど、人種も国籍も性的指向も政治的思想も宗教も違う人たちで溢れていた。ムスリムとイスラエル人がいた。イラク戦争で爆撃した側の人間と爆撃された側の人間がいた。保守派と同性愛者がいた。ナショナリストとグローバリストがいた。難民と難民に追いやった国の人がいた。

このホステルでは、みんながみんな自分の好きなことをして暮らしていた。みんな自分の人生を楽しんでいて、他人の人生に構っている暇はなかった。みんなが「私は私の好きなことをやる。だからあなたもあなたの好きなことをやろう。」という超個人主義を実現していた。そして、その「好きなこと」を通じて絆が生まれていった。人種や性的指向といった属性ではなく、一人ひとりの個性を通じてみんなが仲良くなっていった。数ヶ月毎日一緒に話していたけど、別れの直前まで私の名前や国籍を知らなかった人もいる。属性でなく個人として互いを知り合ったからこそ、正反対の「属性」に属する人たち同志が仲良くなっていった。

「属性」で生きていないこのホステルの人たちは、差別を産まなかっただけでなく、自分に貼ってある日本人だとか女性だとかいうラベルを気にして生きなくていいので、とても生き生きとしていた。

個の尊重

一人ひとりを個人として扱うのは、大変な作業だ。その人のことをよく知らないといけないし、よく知らないうちは面倒くさく感じるかもしれない。だが、だからといって他人が勝手に属性に基づいてジャッジすべきではない。その人の属性で判断し集団の一部として扱うことは、多かれ少なかれ分断に繋がり、その分断は差別へと発展していく。

差別のなく平等な世界をみんなが望む今、ヒッピーカルチャーで多く見られるような個人主義から学べることもあるはずだ。

いただいたサポートは、将来世界一快適なホステル建設に使いたいと思っています。