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マニアック歴史経営①(超グローバルでサバイバルなローマの幹部育成)

興味散漫な性格ですが、幼少期から変わらず好きなものに歴史があります。高校時代はよく学校をさぼって田園地帯を走る新幹線の高架下で教科書から始まって色々な本を読んだものです。約50名と小さな組織ながらも経営者となってからも、夜な夜な読み続けていたこれらの歴史本ですが、最近では経営の教科書にしか見えなくなってきました。笑 以来メモ書き程度に書きためて来た諸々を少しずつ記事に起こしていきたいと思います。

さて、今日のお題は「超グローバルでサバイバルなローマの幹部育成」。頭をガツンと殴られたような衝撃を受けたので、第一回目に選びました。きっかけはストア派の哲人皇帝として名高いマルクス・アウレリウスの『自省録』を読んで、もう少し時代背景も含めて知りたいと思ったことですが、今では企業経営の視点から、彼自身よりもローマの歴史にぞっこんになってしまいました。

まずは、1人のローマ帝国の幹部(軍人)、スタティウス・プリスクスの話をしましょう。161年にパルティア王国が緩衝国であるアルメニアに進攻して始まった「パルティア戦役」の際の実話です。当時ブリタニア(イギリス)の総督の任にあった彼は、皇帝からの命を受け、西アジアの大国パルティア(イラン・イラク周辺)の進攻を食い止めるべく、急ぎカッパドキア(トルコ)へ向かいます。その旅のルートについては、塩野七生さんの『終わりの始まり──ローマ人の物語 XI』の記述をそのまま引用しましょう。

ドーヴァー海峡(イギリスとフランスの間)を渡り、ガリア(フランスやルクセンブルク周辺)を横断し、ドナウ河(ドイツ、オーストラリア、ハンガリー、セルビア、ルーマニア、ブルガリア)ではその河をパトロールする任務の船に乗って黒海まで下り、ヘレスポントスの海峡(エーゲ海と黒海を結ぶ)を渡って小アジア(トルコ)を横断した後でようやく達せる、カッパドキアまでの旅であった。広大なローマ帝国の西の端から東の端まで、一気に駆け抜けたとでも言うしかない旅である。※()内は筆者が補足。

現代風に言えば、イギリス法人からトルコ法人への転勤、ですね。笑 さらに驚くは、このスタティウス・プリスクスに与えられた、グローバル企業もびっくりの幹部育成のためのキャリア形成です。最高位の元老院階級ではなく、その下の騎士階級の出身でありながら頭角を表し、ダキア(ルーマニア周辺)やモエシア(セルビア、ブルガリア周辺)などドナウ川防衛の最前線の属州の総督を任され、その後は本国ローマに呼び戻されて、内政のトップの執政官も経験しています。

ブラジル(属州)出身ながら、フランス(本国)で教育を受け、ミシュラン・フランス頭角を表し、南米(出身の属州)に派遣されて結果を残し、北米(他の属州)を任され、その後ルノーに転職してからは、日本・日産(別の属州)の立て直しで手腕を発揮して本国(フランス・ルノー)に君臨した、あのカルロス・ゴーンにも負けず劣らない、強烈なグローバル経営幹部育成が2000年近く前の世界で、仕組みとして確立されていたことには驚くばかりです。

スタティウス・プリスクスが決して特別な存在ではなく、ローマ帝国の組織立った幹部育成コースの一例であったことを示すために、このパルティア戦役に関わった幹部たちの一部をリストアップしてみましょう。

①フリウス・ヴィクトリヌス:
ローマ軍の参謀のような立場で参戦。過去の経歴は、カッパドキアを含む小アジアの財務官、エジプトの長官などの行政経験に加え、ブリタニア、ドナウ川防衛線、スペインでは軍団生活も長かった。

②ポンティウス・レリアヌス:
同じく参謀の立場で参戦。過去の経歴は、ブリタニア、ゲルマニア(ドイツ、ポーランド、チェコ、スロバキア、デンマーク周辺)、パンノミア(オーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、ボスニア・ヘルツェゴビナ周辺)、シリアなどの重要な属州の総督を歴任。

③ユリウス・ヴェルス:
戦死により空席となったシリア属州総督に任命される。属州生まれ。騎士階級出身。首都ローマで執政官を経験。ゲルマニアとブリアニアの総督を歴任。

④クラウディウス・フロント:
ボン(ドイツ)を基地とする第一ミネルヴァ軍団を率いて参戦。軍団長自身は小アジア(トルコ)出身。

⑤ゲミニウス・マルキアヌス:
ウィーン(オーストリア)を基地とする第十ジェミナ軍団を率いて参戦。北アフリカ出身。

トップから次の層まで、帝国各地の出身者が、広大な帝国領に縦横無尽に赴任させられ、取り立てられていく様を見て取れます。もう少し、ローマ帝国の軍事面での人材育成について、簡単にまとめてみましょう。

⚫︎一般の軍団兵
20年の兵役期間を、同じ軍団に属し、同じ基地で勤務。終身雇用。退役後も多く現地の女性と結婚して基地の周辺に住み着く。この軍団兵の土着化自体もローマの防衛戦略であったらしい。とすると、現地採用の外国人社員がその国に根を張る、というケースが当てはまりそう。

⚫︎百人隊長以上
所属する軍団も、基地も変わる。特に大隊長や軍団長になるとかなりの頻度で変わり、肉体面でも精神面でも広大な帝国の様々な環境になれる効果があった。とすると、有望な若手や中堅は早めに色々な前線を経験させることが重要か。

一方で、ローマの幹部育成は、大きな責任と共に強烈なプレッシャーを背負う、文字通り死と隣り合わせの過酷な仕組みであったとも言えるかもしれません。今回の主人公として取り上げたスタティウス・プリスクスが着任したカッパドキア総督の前任者は、パルテティア王国を相手に敗戦した責任をとって自害しているのです。

敗戦による自害は一般的なことではなかったとは思いますが、空前絶後の広大な領土を長期に渡って安定して統治したローマ帝国の幹部に上り詰めるには、想像を絶する過酷な経験を経る必要があったのだろうなぁ、と想像します。そう思えば、現代の雇われ人の修羅場なんて、かわいいものだと心が軽くなりますね。笑

改めて、ローマ帝国の幹部育成から学ぶことが多いことに驚きます。個人的な話ですが、海外事業の幹部育成を考える立場になり、前線(ミャンマー事業)にとってはとても大切な人材であっても、右腕のような人材であっても、将来を見据えて別の前線(他国)や内政(本社、管理サイド)の経験を与えないとダメだと反省し、実際の人事に反映しているところです。

いやぁ、塩野七生さんのシリーズは、もう「マニアック歴史経営」のネタの宝庫ですね。ローマ帝国とは対照的なヴェネチアの歴史『海の都の物語 ヴェネツィア共和国の一千年』なども経営のエッセンスが凝縮していますので、追々書いていきたいと思います。

(第二回目の記事はこちら)

※カバーフォト:xlizziexxによるPixabayからの画像


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