カレンダーストーリーズ_表紙

『カレンダーストーリーズ』オモテ12月「ニコライ」(2)         【短編小説】作:丘本さちを


 夕暮れの頃にはもう、うっすらと白い雪が積もり始めていました。父は庭に面した奥の部屋にこもり、絵を描いているはずです。私は一人、絨毯の上にノートを広げ、父の真似事をして鉛筆を躍らせていました。側に置いてある石油ストーブの火が赤くゆらゆらと揺れています。雲の向こうの太陽が山並みに沈んだのでしょう。部屋の中は緞帳を降ろしたように暗くなりました。私はお絵かきを止めて立ち上がり、電灯のスイッチに手を伸ばしました。オレンジ色の光が部屋を照らし出します。私はこの電球に照らされた部屋の雰囲気が好きでした。

 果たしてどれくらいの時間が経ったのでしょうか。私は暖かい部屋の中で転がっているうちに、ついうとうとと眠り込んでいました。すっかり夜の気配がします。窓の向こうでは、カラマツの木々が白いコートをまとっているのが見えました。あたり一面、雪景色に変わっています。不思議なことに、積もったばかりの新しい雪はそれ自体が淡い光を発しているように見えました。子供の私は興奮を抑えきれず、父の姿を探しました。普段は自分から父に近づくようなことはしないのですが、この時ばかりは誰かに気持ちを伝えずにはいられなかったのです。

 私は奥の部屋に続くドアを勢いよく開けました。しかし父の姿はありませんでした。イーゼルに乗せられたキャンバスの前には、がらんとした空気だけが漂っていました。もしかしたらすでに寝室にいるのかもしれません。私は二階へと続く階段を上り、寝室のドアを開けました。灯りは点いておらず、真っ暗です。

「お父さん」

 私は小さく呼びかけました。返事はありません。

「お父さん、いないの?」

 少し目が慣れると、廊下から漏れる光でベッドの様子が見えてきました。ベッドカバーは乱れた様子がなく、まるで石英のように硬く整っていました。私は寝室のドアを閉じ、一階に戻って食堂や居間、私の子供部屋、台所、トイレ、風呂、そしてもう一度奥の部屋を見て回りました。が、父はいませんでした。

 さっきまでの興奮は消えていき、次第に不安が膨らみ始めました。もしかしたら父は私を置いて帰ってしまったのではないか、私はこの別荘にひとり置き去りにされたのではないかと思ったのです。直情的な父の性格を考えれば、あながち無いとは言い切れません。それは八つの子供にとっては血の気が引くような想像でした。

 そうだ、車!

 私は急いで靴を履き、玄関のドアを開けました。目の覚めるほどの冷たい風が吹き込んできました。庭に下りる階段は雪に埋もれていてまったく見えません。見当をつけて右足を踏み出すと、勢いよく膝まで埋まりました。雪はひたすら降り続けていて、幾重にも重なったカーテンのように視界を塞いでいます。私は無理に階段を下りることを諦めました。きっと父は買い物か何かの用事で出かけているだけなのでしょう。私は家の中へ引き返し、濡れてしまった髪の毛をタオルで拭きました。夕食を食べていなかったことを思い出した私は、買い込んでいた食料品の中からいくつかの缶詰を取り出して食べました。まったく心細い食事でした。そして寝間着に着替え、子供部屋のベッドの中で不安を消しきれないまま、ゆっくりと眠りに埋もれていきました。

 翌朝、太陽の光で目が覚めました。窓から朝の強い光が差し込んできたのです。私は飛び起きてまっさきに父の寝室へと向かいました。階段を駆け上がり、ドアノブに手をかけてゆっくりと開くと、ベッドの上は昨夜と何ひとつ変わっていませんでした。やはり父は私を置いて帰ってしまったのです。助けを呼ぼうにも別荘には電話がありません。こんな人里離れた山奥に都合良く訪ねてくる人がいるとも思えません。ましてや大雪です。いくら子供とはいえ、楽観的な状況だとは到底言えないことは分かっていました。

 寝室のカーテンの隙間から漏れてくる光がやけに眩しく感じます。茫然としていた私は、その光に惹きつけられるようにして寝室の奥へと進んでいきました。カーテンを開き、窓から外を見やると、そこには一面の銀世界が広がっていました。その美しさに思わず息を飲みました。雪はすでに止み、白く変化した山並みの上には雲ひとつ無い青空が広がっています。輝く太陽に照らされた雪の世界は、今までに見たどんな景色よりも激しく私の心を捉えました。束の間の瞬間、私は取り残された不安を忘れて、白銀の世界のまばゆさを受け止めるのに精一杯でした。

 視線を庭に落とすと、そこにはルーフに雪が積もった父の車が昨日と変わらない場所に駐まっているのが見えました。

(3)に続く https://note.mu/kesyuhamonium/n/ndac4d989d32e


オモテ12月「ニコライ」(2)/文・丘本さちを

cover design・仲井希代子(ケシュ ハモニウム × ケシュ#203)

*『カレンダーストーリーズ』とは…"丘本さちを"と"毎月のゲスト"が文章やイラスト、音楽などで月々のストーリーを綴っていく連載企画です。第一月曜日は「オモテ○月」として丘本の短編小説が、第三月曜日は「ウラ○月」としてゲストの物語が更新されます。

※2016年 10月の更新をもって『カレンダーストーリーズ』の連載は終了しました。お読みいただいた皆様ありがとうございました。


丘本さちを(おかもと さちを)…映像プロデューサー、週末小説家(2015年12月現在)。大手CMプロダクション、出版社勤務を経て現在フリーランス。映像制作業に勤しみつつ、精力的に小説や歌詞などの執筆活動を行う。第5回新脈文芸賞受賞。既刊本に『往復書簡 傑作選』『続・往復書簡 傑作選』(共に仲井陽との共著、ケー出版)がある。謎の集団ケシュ ハモニウム創設メンバー。愛称は”さちを”。物静かだがフレンドリーな対応に定評あり。


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