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[ちょっとした物語] トルソーの誘いと春の風

ある春の日の午後だった。
部活がはやくに終わり、僕は着替えて教室を出た。
あたたかな風が廊下を吹き抜ける。その誘いに足は運ばれる。

さらさらとなびくカーテンは、人の気配を薄くしていく。風にさらわれたカーテンの裏側に現れた人影。
僕はドキッとする。
でも微塵も動かない、その影は半身をこちらに向けて佇んでいる。

風に乗った葉の香り。近づくにつれて、乾きがなびいて、髪の毛を揺らす。手をその肩に置くと、不安定にギシッと動いた。
ガーゼのような布が貼られた、その木肌、少し力を入れるとカタカタと音が鳴る。その体内は乾いた空気が巣食っているようだ。
無機質な心棒の方に目をやり、その体をこちらへ向けてみた。
ふっくらとした乳房のような形。ずいぶんと胸を張り、頑なに真正面を向く。あるはずのない顔は、輪郭だけがなぜかぼんやりと浮き上がるように形作っていた。

僕はまわりを見回す。
さっきまであれほど爽やかに、風を感じていたのに、脇に少しだけ汗がにじむ。そっと胸から脇にかけて指を滑らせる。すると、胸がゆっくりと鼓動を強めてきた。
ガーゼのざらつきは指先を刺激する。その肌はこの世の最たるやさしさのように思えた。

風が窓から流れてくる。
カーテンは僕の頬を掠めた。
その風に押されるように両手でその肩を抱きしめる。
言葉にはできない、その領域の中で、僕は愛のような、愛とも言えるような、甘美を持って、あるはずもない耳元でため息をついた。

「受験に備えてたいから、あなたとは付き合えない」

そう手紙をくれた彼女は、その翌週、僕の友人と付き合い始めた。なんだろう、とても不思議だった。
どうしてそんなどうしようもないことが僕の身に起きたのか、不思議だった。
嘘とは、人を騙すことだろう。騙すとは、本当でないことを、本当のことのように振舞うことだろう。たった7日間のために、嘘にもならない湯気のような言葉をどうして紙にしたためたのだろう。

風に運ばれるほど、空っぽになった僕は、その事実とその嘘をトルソーに語りかける。無論、返事はないけれど、口から吐き出した僕の言葉は、なびくカーテンのゆらめきに絡まる。ゆっくりと僕は、その体を抱きしめる。
さっきまで心を締めつけていた彼女の不可解な言葉は、少しだけ締めつけが緩くなったような気がした。

許す?
許さない?

頭の中にぼんやりと浮かぶその選択肢。ただ、僕は何を決断すべきなのだろうか。手をかけた肩を少し強く抱く。
強く抱きしめれば抱きしめるほど、その軽い体は軋みながら僕の胸に食い込んでくる。
そのざらついた表皮の奥は、乾きとほこりが漂う空間でしかないことを忘れている。

もし、そこにいるのが君だとしたら。
君だとしたら、なんて言うだろうか。
ありもしない、ありえない妄想の君が僕の前に現れる。

「話しかけないでほしい」

ささやきにも似た声が右の耳元に響いた。

「ごめん」

これでいいのだ。
最初から何も始まってやしない。
諦めが肝心だ。執着にいいことはない。

校庭から運ばれるサッカー部の掛け声。
窓の方を見てみると、校門のあたりで男女が楽しそうにふざけあっている。時は身勝手に、吹く風のように流れている。カタカタと振れる軽い体を僕は引き離した。

「ありがとう」

肩に染みた水の跡。
僕は申し訳ない気持ちでさっと手で払う。
さっと周りを見回して、僕は踵を返す。
またいつもの毎日を生きるために。

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