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[ちょっとしたエッセイ]「行かなきゃよかった」でもそれはたぶん嘘

 先日、会社を休んで都内の大学病院で検査を受けてきた。ここのところ、体からジワッとしたSOSが出ていたのかもしれない。人生も半ばを過ぎて、五体「超」満足というのは、土台無理な話で、どこかしこにちょっとした不安の塊を抱えながら生きる方が普通だろう。少し諦めに似た感情で、検査を受けてきた。
 終わったのが昼前だったので、病院のある場所から最寄の不便な地下鉄には戻らず、フラフラと散歩がてらアクセスのよい駅の方へ向かうことにした。
 というのも、病院を出るとさっきまでの曇り空が嘘のように晴れ渡ってたからだ。あとTwitterを見ていたら、徒歩圏内に行ってみたい古着屋と本屋があったことも後押しした。
 晴れた秋空の元、平日しかも金曜日の街中は、思っていた以上に忙しかった。ただ、このところの入国緩和のためか外国人が多く、少し休みの雰囲気もある。静かにひとりで理由もなく街中を歩くなってなかったので、少し気分も高揚してきた。
 トボトボと歩き始めて数時間。紅葉までもいかない木々のざわめきは、季節の合間、中間を想起させる。歩いていても汗はかかず、これ以上ない。スマートフォンのマップを見て、ゴール地点をJRのとある駅に決めた。そしてそこまでの道のりに気になる店を当てはめて、この当てもなかった歩き旅の道筋を決めた。ああ、楽しかったな、と思うに違いない、ある種完璧な午後だ。

 しかし、そんなことを考えている時は、危ない。
 世の中は思い通りにいかないことこそ本質で、「思い通りに行かないと最初からわかっているから、うまくいかないことで、結果的に思い通りになっている」というトンチに似た思考回路で生きるしかない。
 たいていそうやって、受けた悲しみや怒りなんかを抑制し、それでもなお淡い期待を抱える矛盾を繰り返す。遠藤憲一の名曲「カレーライス」にある歌詞に「バカだな、バーカだなあ」とあるが、まさにそんな感じの少し軽いバカさで生きてきた。
 楽しいことや、楽しそうなことは好きなのだが、その割には僕は人付き合いが結構苦手だ。いつもなんだかんだ、それが原因で、楽しめないというオチがまとわりついている。美術館や音楽ライブなんかであれば、見るだけ、聴くだけでいいので、なんとかなるのだが、人との関わりが避けられないパーティーや会合的なものは本当に苦手で、でも誘われれば、「今回は…」とかいう期待で大体出席するが、やはり結果は同じである。たぶん僕はそういう何かに、苦手な割に少しだけ期待してしまうんだと思う。諦めていても、無理だと思っていても、期待のカケラが消えない。何をどう期待しているのかわからないが、いつでもそれはここにある。

 夕方というにはまだ燦々としていて、でもまもなく迫り来る夕暮れがどこかに見え隠れする時間帯。僕は、ようやく目当ての本屋さんにたどり着いた。下町の懐かしい風景と、新しいモダンな雰囲気が融合した場所だった。6畳ほどの店内には、雑貨と本が並び、見た目に壮観、にやけてしまう。丸テーブルに並んだ本たちは、背丈もサイズもいびつだが、なんとなしに整然と並んでいて、ワクワクした。
 ただ少しすると、緊張感が僕の背中を駆け上がってくる。店主、お客、もう1人の3人が楽しそうに話していた。「もう1人」というのは棚の所々に並ぶ小さな人形の作者のようだった。限られた店内で、3人がとても楽しそうにあちらこちらの棚へ移動しながら、話す。僕はその度に、あたかも偶然のように位置をずらしながら、空いたスペースへ移動する。
 だんだん、本や雑貨への興味から、自分の移動スペースの確保に勤しんでいるようになり、どうも居心地が悪かった。最後には、ドアら辺で、話しはじめたので、並んでいた本やフリーペーパーを手に取って、なんとなしに時間の流れるのを追っていた。
 ようやくドアへの道が開けた時に、僕は一目散に店を出た。

「ああ、やってしまった」
 店を出てそう思った。最後の最後でなんだか後悔の念が湧いて出てきた。自分のちょっとした振る舞いでそうなることはなかったはずなのに、いつも最後は、ちょっとした失敗によって後悔が湧いて出てくる。「行かなきゃよかった」と。
 とても素敵な店だった。きれいに陳列されていて、選書もどれもよかった。アットホームで、Twitterなんかの評判通りの店だった。それでも、ある種のミニマルで極限の嘘偽りのない空間におけるコミュニケーションの中では、僕みたいな人間はやはり向かないのかもしれない。今回もだめだった。でも本当に後悔しているかどうかを天秤に計ったところで、どちらかなんて答えはないんだ。

 商店街の先にある階段の上から、都内を眺望してみると、オレンジの空がうっすらと辺りを包んでいた。2022年の他愛もない1日で、数カ月もすれば、忘れ去られそうな1日である。
 そして、また同じような感情がいつかどこかで湧いて出てきても、「あの日もそういえば」みたいな感傷に浸れるようになることができれば、もうちょっと強く生きられれば、これまでの自分の供養にもなるのかもしれない。

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