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【小説】シャンバラの住人2 魔導師の奸計

こちらは八幡謙介が2015年に発表した小説です。


プロローグ

山積みにされた段ボールが壁を覆う小汚い部屋は、換気が悪いのか、煙草の煙でうっすらと靄がかっていた。その部屋の一角に薄汚れた事務机があり、異様なほど背を丸めた男が一心不乱に書類と向き合っている。濃い紫色のゆったりしたパーカーを着て、フードですっぽりと頭を覆っているから、表情は見えない。ペン先で書類の文字を何度も叩きながら確認し、せわしげに煙草を吹かしながら電卓をタップして、時折何かをメモしては、首を傾げたり、頷いたり。それを幾度となく繰り返した後、ペンを叩きつけるように机に置くと、男は作りの悪いパイプ椅子を軋ませながら大きくのけぞって、顎を上げ、満足げにひとつ息を吐いた。パーカーのフードが自然に脱げ、痩せこけた男の頬が現れた。『ついに、完成だ――』男は自分でも聞き取れないほど小さく呟くと、口角をゆっくりと歪め、うっすらと靄がかった天井を見つめながら不気味に肩を揺らし続けた……

「っシャッせぇぇえっ」
 正男が店に入ると、いつもと変わらぬ独特の挨拶が店内にこだました。彼はそれを心地よく受け止めると、入り口付近に雑多に積まれた玩具や、申し訳程度に揃えられている小説の棚には目もくれず、最短距離で〝門〟へと歩を進めた。
『ようこそシャンバラへ(十八歳未満の方の入室を禁じます)』
 入り口にあるなんでもない一言が、正男の心をいつも暖かい気持ちにさせる。ここは紳士の憩いの場であり、帰るべきホームであり、完璧な調和が保たれた理想郷なのである。ここシャンバラには、争いはおろか、嫉みや憎しみ、差別、憎悪といった負の感情は存在しない。どんなに邪(よこしま)な心を持つ者も、ひとたびこの地に足を踏み入れれば、たちどころにその悪は浄化される。そして人々は、この地がはぐくんだ自然法――言わば神の法に従って、粛々と巡礼に赴くのである。
 正男は〝門〟をくぐってすぐのアダルト・コミックコーナーを素通りし、いつもの巡礼開始地点である巨乳コーナーへと向かった。すると、そこには見慣れぬ若者がいた。
 ――〈一人一棚ワンマンワンシェラフの原則〉。
 同じ棚を同時に眺めるのは、ここシャンバラの作法に反する。従って、目的の棚を誰かが見ている場合は、その者が次の巡礼地へと旅立つまで待たねばならない。
(仕方ない、では制服ものから……)
 よくある出来事に、正男は落胆も憤慨もせず、淡々と巡礼開始地点を変更することにした。そして、制服コーナーへと向かうため、彼の後ろを通り過ぎようとしたとき、正男は驚愕した!
 なんと、この男は〈半身はんみの礼〉を取らなかったのである!
半身はんみの礼〉とは、狭い通路をすれ違う際、半身になってお互いが通りやすくするという、シャンバラにおける最も基本的な作法のひとつである。熟練の者同士になると、全く目も合わさず、呼吸と気配だけでお互いがすっとスペースを空け、通り過ぎると同時に厳かに元の位置に戻っていく。しかし、巨乳もののDVDを見ているこの男は、正男の気配に気づいているはずなのに、何のリアクションも起こさず、棚の間のわずかなスペースに無造作に立ち、DVDを一心に眺めている。
(何たる、無礼な!)
 正男の心中に、恐らくこの場所で初めてといってもいい怒りの念が湧いてきた。と同時に、正男はふと、ここ最近のシャンバラの空気の変化に気がついた。こういった無粋な者が増えていることもそうだが、このところ正男の心もどこか堅く、刺々しくなることが増えてきた。正男は最初、それを日常生活のせいにした。いつまで経っても回復しない景気、一向に上がらない給料と年々増えるサービス残業、歳を重ねるごとに感じる社会からの冷たい視線……。それらからひとときでも逃れようと、正男の足は自然とこの地を目指した。癒されるためだった。しかし、シャンバラでの巡礼そのものが、このイライラの全ての根源だったとしたならば……。
 ――まさか……。ありえない! シャンバラには悪は存在しないはずだ。いや、しかし、あの噂がもし本当なのだとしたら……。
 正男は、いつも利用しているアダルト掲示板で度々言及されるある都市伝説を思いだした。ここ〈宇宙書房シャンバラ〉と同じく、全国各地に点在する理想郷(アダルトシヨツプ)に時折現れるという伝説の魔導師(ウィザード)の存在を!
 その被害報告は、挙げていけばきりがなかった。しかし、どれひとつとして犯罪にあたる事例はなく、客側の思い込みにすぎないといえばそれまでである。全てに共通していることは、ある時期から急にDVDの購入量が増えてしまい、しかもその作品の大半は駄作であるということだった。そして正男には最近、その兆候が現れていた。意気揚々とDVDを手に帰宅し、内容に落胆してイライラを募らせるということが、ここ最近で急に増えたような気がした。
 と、――
 正男はある重要な任務をすっかり忘れていたことに気づいた。これで恐らくイライラは解消されるはずだ……。
 巡礼を一旦中止し、厳かにレジへと向かう。一歩進むごとに、彼の心臓は鼓動を早めた。熟女コーナーを横目に過ぎ、カウンター前に立つと、
「っしゃせぇっ」
 と、店員がトーンを落として正男に挨拶をした。
 すかさずリュックの中からDVDを四本取り出すと、
「買い取りですね、かしこまりました」
 店員は彼が一言も発さないうちに要望を理解し、DVDをうやうやしく両手で受け取ると、素早く確認作業に入った。
 正男は、何でもない所作から相手の実力を見抜く武道家のように、店員の作業から彼の実力を計り、心中驚嘆した。
(――この男、できる!)
 正男が手ぶらでレジに立った瞬間、買い取りであることを察したこと、そして一分の隙もない商品確認――盤面の確認は言うに及ばず、いくつかの作品に付けられた特典が揃っていることもしっかりと確かめている(つまり、それらの作品が特典付きであることを知っている)。さらに、さりげなく差し込まれたレシートの日付をチェックし、それらを静かにレジに並べる様に、正男は驚嘆を通り越し、感動すら覚えた。
 ここ〈宇宙書房シャンバラ〉では、現在『買い取り強化キャンペーン』が行われていた。シャンバラで購入したDVDは、一週間以内にレシート付きで持ち寄れば、販売価格の六割の値段で買い取ってもらえるのである。新作好きの正男には渡りに船であった。しかし、たったひとつの問題が彼を今日までためらわせていた。それは、会話である。
 シャンバラには、言葉での会話を極端に嫌う風習があった。何千、何万という『行為』を記録した作品の迷宮の中では、言葉は空虚であり、自らその存在を恥じているかのようにさえ思われる。それらをみだりに発することは、作品への冒涜であり、同じ巡礼者、そしてシャンバラそのものへの冒涜にもなりかねない。だからこの地を訪れる者は、極端なまでに言葉を慎むのである。しかし、DVDを半額で買い取ってもらうためには、購入から一週間以内に持って来たことを店員に告げねばならなかった! そのたった数語を発することを恥じらい、作品に不満があっても買い取りを申し出ない巡礼者も存在するのである。
 正男は考えた。シャンバラの神の立法に従い、この地の静寂を護るべきか、それとも、己の意志を尊重するべきか……。そして彼は賭けに出ることにした! あえて半額の買い取りを言葉に出さず、レシートをさりげなくDVDに挟む。果たして店員が気づくかどうか……。もし気づかなければ、その店員はシャンバラの管理者として失格であろう。そんな堕落した者の手にあっては、いずれこの地も荒廃するはずだ。そうなる前に、正男は自らこの楽園を捨て、流浪エグザイルに出る覚悟があった。しかし、もし店員がレシートに気づいてくれたなら……。
 果たして、正男の希望は叶った! それも、最も厳かに、かつ優雅な作法を持って!
 正男は買い取りシートに必要事項を埋めると、騎士が王から褒美を授かるときのように、静かに両手で現金を受け取った。
 ――シャンバラは健在だ!
 不用意に口角が上がらないよう気を付けながら、改めて今宵の巡礼を開始した。このとき、彼はまだ気づいていなかった。ここシャンバラが既に魔導師ウィザードの手中に落ちていることを……。

榛(はい)原(ばら)崇(たかし)は、買い取りを済ませ満足げな顔で巡礼に向かった男の背を見ると、不意に口角が歪み、慌ててそれをおさえた。
 ――かかったな。
 全て計算ずくだった。会話を極力減らすことも、初回特典をしっかりと買い取り査定に加算することも、そしてもちろん、レシートで購入日を確認し、キャンペーン対象かどうかを見定めることも。
 ――あいつのあの満足げな顔……
 思い出すだけで吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えた。無論、表情には出さない。そして、慎重に営業スマイルを作ると、店内に設置された万引き防止用のミラーを素早く確認した。といっても、ここに居る羊のように大人しい客たちが万引きをするとは思ってはいない。その慎ましさ、行儀の良さが榛原をさらに苛立たせた。
 それにしても、彼はなぜこれほどまでに客を、そしてここシャンバラを憎んでいるのか? それを理解してもらうために、読者にはしばし退屈な回想に付き合っていただかねばならない――

榛原崇はいじめられっ子だった。小学生の頃は、クラスや学年でも比較的優位な立場に居られたのだが、よくあるように、中学で力関係が逆転した。忍耐の三年間だった。
 その後、親の反対を押し切って受けた県外の高校に合格し――無論、中学のいじめっ子がその高校を受けないことはリサーチ済みだ――新しい人生をスタートさせた。しかし、運命は榛原にさらなる試練を与えた。同じ中学で全く目立たなかった数名の生徒が、見事高校デビューを果たし、新たに彼を標的としたのである。
 いじめは中学時代とは比べものにならないほど熾烈を極めた。
 若くして苦汁を舐めつくした榛原の容姿は、高校一年にして既に老成していた。声は酒焼けした中年のように低くかすれ、眉間には苦悩をありありと湛える一本のシワが刻まれ、髭は一日放っておくと口元を苔のように覆った。目は濁り、常に焦点が合っておらず、どこか現世ならざるものを映しているかのようだった。
 新たないじめグループのリーダー格の男は、そんな彼の容姿に目を付けた。
 休日に榛原を呼び出すと、いじめっ子たちはある任務を彼に下した。今からAVを買ってこい、何を買うかは任せる、と。まだ榛原と同じ高校一年の彼らは、理想郷アダルトシヨツプでの巡礼を行う資格は持っておらず、また、その禁を犯す勇気もない。こうした怯懦は、しばしばある種の矛盾を犯す。彼らはいじめの延長として、この任務に最適な人物、つまり榛原を選んだ。これがいじめであれば、榛原はこの任務に最も適さない人物であるべきだったし、また、任務のみじめな失敗を持っていじめは成功とされるべきであった。しかし、彼らのうち誰一人としてこの矛盾に気づかなかった。なぜならば、いじめっ子グループ全員が暗に、榛原が任務に成功し、アダルトDVDを手に無事帰還することを切望していたからである。
 榛原は当事者として、この矛盾にうっすらと気づいていた。なぜ今回に限ってこのような安易ともいえる行為を要求してくるのだろう? 自分の容姿や声なら絶対に怪しまれることはないから、要求通りDVDを購入することはたやすい。それに、彼らには内緒だったが、榛原は既に自身の特性を生かし、しばしば理想郷アダルトシヨツプでの巡礼を行っていたのである。
 ――これだけで終わらない。終わってからも、きっと何かある。
 榛原はいつものように、胃の底が重く沈んでいくような気怠さを感じた。目標の店に入り、やすやすと店のアダルト・コーナーに侵入すると、一切うたがいの目を向けられることなく、中古コーナーへと足を向けた。自腹を強要されたからである。
 ――腹いせに最低のものを買って渡してやろうか?
 榛原の心にどす黒い怨念のようなものが湧き出てきた。しかし、彼は慎重に気持ちを鎮めた。そんなことをすれば報復は目に見えている。それならば、気はすすまないが最高の作品を差し出すべきだ。
 榛原には歴史で習った、宗主国への貢ぎ物を携えて旅をする属国の使者の気持ちがありありと理解できた。貢ぎ物が気に入らなければ斬首、気に入られれば晴れて奴隷としての身分が確立される。いずれにしても、最低だ。
 腹をさするようにしてなんとか胃のむかむかに耐えながら、彼は恐るべき手際のよさで中古コーナーを物色した。現時点で知っているありったけの情報を元に二枚選ぶと、易々とそれらを購入し、いじめっ子の元に戻っていった。
 その日はそれで解放された。
 週があけると、榛原の身辺に変化が起きた。昼休み、いつものように一人で弁当を食べていると、いじめっ子グループの下位に属する二人が彼を訪ねてきた。今までにないことだった。二人は小声で、またDVDを買ってきて欲しい、金はこちらで出す、内容は任せるとだけ告げ、人目を気にしながらそそくさと去って行った。
 翌日は彼らの教室に呼ばれ、角で弁当を一緒に食べた。時折突き刺さる好奇の視線を気にしながら、紙包みに入れたDVDを二人に渡し、恐る恐るレシートを差し出すと、中古品で破格だったからか、二人とも素直に支払ってくれた。しかも、〝バイト代〟と称し、端数を切り上げた額で!
 その日を境に、彼の元には、男子生徒が次々と訪れるようになった。簡単な面接と前金で、榛原は彼らの嗜好にぴったりの作品を必ず手に入れてきた。そうして気づいたときにはいじめは止み、それどころか、ほとんどの男子生徒から尊敬の眼差しを向けられるようになっていた。榛原は今や闇の君主であった。そして、その地位にふさわしいよう、常に情報収集を怠らなかった。仲良くなった店員からは、業界にしか出回らないサンプル版を譲って貰ったり、当時まだ珍しかった裏もののコピーを、そっとレジ袋に入れてもらったりした。それらは、あるときは人気バンドのライヴDVDとして、またあるときはお笑いコンビのコント集として名を変え、男子生徒のブレザーの裾から裾へと渡った。
 しかし栄華は続かなかった。
 影の尊崇をほしいままにした高校生活も終わりを告げ、榛原は就職した。不景気のあおりで進学はままならなかったのである。廻りは皆十八歳を過ぎていて、しかもDVD程度の小遣いには困っていない。それに彼らの興味は映像から生身の女、風俗へと進化していた。榛原はまだその世界では素人であった。
 彼は再び心をふさぎ、当時浸透しはじめていたネットにはけ口を求めた。

オレは結局、工場を辞め、この世界に戻ってきた。ここはオレをあの陰惨ないじめから救ってくれた天国、しかし同時に、オレをある限界へと制約し続ける煉獄! ならば、オレはとことんこの世界を極めようと決意した! そこからオレの遍歴ペレグリナスィオンが始まったのだ。
 オレはまず、この世界の大手である光秀書店にバイトとして雇われ、そこで薫陶を受けた。修行は厳しかったが、オレはどうにかこの世界の構造を把握するまでに至った。そして、修行を積んだ僧侶があえて山を下り、俗世の人間と交わることでより徳を積むように、オレも三年勤めた光秀書店を惜しまれながら辞めた。正社員の誘いを蹴ってな! そこからオレは、ほぼ一年おきに県内外の理想郷(アダルトシヨツプ)を渡り歩いた。オレが勤めた店は必ず売り上げが上がった。なぜならば、オレが構築した永久機関、〈永遠回帰エターナルリフレイン〉をことごとく発動させてきたからだ! それが巡礼者たちを苦しめていたことは知っている。いや、むしろそのために発動させてきたといってもいい。そう、これは復讐なのだ! オレの人生をめちゃくちゃにした呪縛へのな! そしてオレは再び闇の君主たる魔導師(ウィザード)としてこの世界に君臨する!
 …………ふと、入り口の自動ドアが開く気配がした。榛原は気を静めて、いつものようにやや甲高い声で挨拶をした。

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