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文章解説2 中村文則「銃」 世界観、付帯情報、主語抜きなど

テキスト


私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。それは狭い部屋の中に鋭く響き、私を起こすには十分な大きさだった。無視しようと思い、どけていた布団を手繰り寄せたが、音はもう一度響いた。

(河出文庫 P119)

解説

作品中盤、主人公の部屋に警察が訊ねてくるシーンの冒頭です。
一見何でもない朝の描写ですが、しっかり読み込むと、何層もの思考を経て書かれた文章であることが分かります。

①受け身の文章

まず、最初の一文が受け身であることに注目しましょう。
普通に書くと、

私は玄関のチャイム音で目を覚ました。

仮にエンタメ小説ならこれぐらいの情報で十分だと思われます。
この程度のことはさらっと出来事だけを描写してさっさと本題に入っていった方が読みやすくなりそうですよね。
それをあえて、

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。

と、受け身で表現しているのは、玄関のチャイム音を異質なものとして表現するためです。
このチャイムは主人公にとっては好ましくないもの、異質なものであり、しかもそれを鳴らしているのは警官という、銃を手にした自分にとって邪魔な存在です。
そんな余計なものが主人公の心に侵入してきた朝の風景です。
これを【私は玄関のチャイム音で目を覚ました】とすると、どこかなんでもない日常風景になってしまいます。
ですからあえて受け身にしたのでしょう。
また、【私の目を覚ました】とすると、銃に魅入られてしまった自分を警察が正気に戻すために来たという暗示にもなります。

②「の」の重複を避ける

次に気になったのは【チャイム音】という表現。
これは書き手ならすぐに分かると思います。
「の」の重複を避けるためです。
【チャイムの音】とすると、

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイムの音だった

これでは「の」が多すぎて文章が稚拙になってしまいます。
でもこの受け身の文章は崩したくない……そこで【チャイムの音】を【チャイム音】とつづめたのでしょう。

③付帯情報


それは狭い部屋の中に鋭く響き

これも読み飛ばしてしまいそうになりますが、とても秀逸な付帯情報が詰められています。
それは【狭い】と【鋭く】です。
まず、【狭い】から見てみましょう。
この付帯情報を削るとどうなるか?

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。それは部屋の中に鋭く響き、私を起こすには十分な大きさだった。

全く問題ありませんよね。
むしろ文章がすっきりした感じすらあります。
でもやはり、僕は【狭い】があった方が文章の質がよくなると思います。
【部屋】という言葉に【狭い】と一言足すことで、主人公の心の余裕のなさや、生活のやや困窮した印象を読者に与えることができます。
また、ここはチャイムの音が大きく響いているシーンなので、部屋を【狭い】と描写することで相対的にチャイムの音の大きさをイメージさせることもできます。

次に【鋭く】。
ここは普通だったら「大きく」とか「うるさく」とするところでしょう。
それをなぜわざわざ【鋭く】としたのか?
恐らく主人公の心にグサっと刺さるイメージを持たせたかったのでしょう。
実際に銃を隠し持っている主人公が、部屋に警察の訪問を受けたら(チャイムの時点で警察とは知らないものの、その予感は持っていたはず)、心臓に何かが突き刺さったかのように感じるはずです。
その予兆である【チャイム】は、ただうるさいだけ、大きいだけというよりは、もっと【鋭】いものであると作者は考えたのでしょう。
実際そうすることで、ただのチャイムの音が何か悪い予兆だと感じられます。

④主語抜き

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。それは狭い部屋の中に鋭く響き、私を起こすには十分な大きさだった。無視しようと思い、どけていた布団を手繰り寄せたが、音はもう一度響いた。

【無視しようと思い】という一文もとても秀逸です。
思いっきり主語が抜けており、文章教室、小説教室なら添削されそうな一文ですが、小説を読んでいると文章が巧い人ほど実は主語抜きをよくやることに気づきます。
本作は新潮新人賞に応募した純文学作品です。
純文学読者(審査員)が【無視しようと思い】で何を無視しようと思ったのか分からないということはまずありません。
恐らくそこを見越して、文章を簡潔にするためこの主語抜きを作者は選択したのだと思います。
ある種、非常に高度で緻密な賭けといっていいでしょう。
試しにここに主語を入れてみましょう。

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。それは狭い部屋の中に鋭く響き、私を起こすには十分な大きさだった。私はそのチャイムを無視しようと思い、どけていた布団を手繰り寄せたが、音はもう一度響いた。

それほど悪くもありませんが、主語が何度も続き、ぼてっとした感じがします。
やはり主語を抜いた方がソリッドな印象があります。

⑤重複を避けて表現を変える

【私】という主語もそうですが、もう一つ【チャイム音】という単語の重複も明確に避け、二回目以降は【それ】、【音】と表現を変えています。
これを全て【チャイム音】のままにすると、

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。チャイム音は狭い部屋の中に鋭く響き、私を起こすには十分な大きさだった。無視しようと思い、どけていた布団を手繰り寄せたが、チャイム音はもう一度響いた。

こうするとものすごく稚拙になりますね……。

まとめ

以上まとめると、

文章を受け身にし、心理を暗示
付帯情報を吟味し、世界観や心理描写の手助けに
同じ言葉、単語の重複を避ける
主語をあえて抜いて文章の流れをソリッドに

短い文章の中でこれだけのことをやっています。
しかも、これが新人賞応募作ですから、相当な才能の持ち主であると言っていいでしょう。

おまけ

最後に、原文と指摘した箇所をあえてなくした文章を比較してみましょう。

原文

私の目を覚ましたのは、玄関のチャイム音だった。それは狭い部屋の中に鋭く響き、私を起こすには十分な大きさだった。無視しようと思い、どけていた布団を手繰り寄せたが、音はもう一度響いた。

悪い例

私は玄関のチャイム音で目を覚ました。チャイム音は部屋の中に響き、私を起こすには十分な大きさだった。私はチャイム音を無視しようと思い、どけていた布団を手繰り寄せたが、チャイム音はもう一度響いた。

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