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【小説】シャンバラの住人

こちらは八幡謙介が2013年に発表した小説です。

シャンバラの住人

正男がいつもの店に入ると、奥のカウンターから「っシャッせぇぇえっ」と、極限まで崩された書のような「いらっしゃいませ」が店に響いた。しかしそれは、正男にとっては「おかえりなさい」と同義語でもあった。この厳かでどこか暖かみのある声を聞くと、正男は心底ほっとする。
 入り口付近に申し訳程度に並べてある漫画や写真集、アニメや映画のDVDなどには目もくれず、正男は一直線に〝門〟を目指す。すると、ど派手な文字が目に入ってきた。
『ようこそ、シャンバラへ』
〝門〟の入り口には、いつもの通りそうあった。正男は一旦足を止め、軽く深呼吸をし、敬虔な気持ちで〝門〟を潜った。眩いほどの光の群れが、まるで誘(いざな)うように正男の全身をくまなく照らした――
 ここは〈宇宙書房シャンバラ〉という、片田舎特有の大仰な名前を冠したアダルトDVDショップである。入り口付近の品物はほとんど何のために置いてあるのか不明である。自治体からの指導なのだろうか? メインのアダルトコーナーは店舗面積の七割を占め、決して狭くはないはずだが、それをはるかに上回る物量と、それらを陳列するための棚に占領され、さながら迷路のように入り組んでいた。棚で区画された各通路は、大人二人が身を細くしてようやくすれ違えるほどである。
 正男が〈シャンバラ〉に一歩踏み入れると、入り口付近の雑誌を立ち読みしている男が目にとまった。すると男は雑誌から一切目を離していないのに、まるで見えているかのごとく、身をぎりぎりまで棚に寄せ正男がすれ違えるほどのスペースを作った。
半身はんみの礼』
 ここ〈シャンバラ〉の基本的な宮中作法である。最近はそれをわきまえない無礼者が多く、見たい棚まで行けないこともしばしばである。正男も十分に身を細めて『半身の礼』で男の後ろを通り過ぎる。ちらりと雑誌を盗み見ると、あどけない少女が無数の触手に手足を絡め取られていた。
 正男の〈シャンバラ〉巡礼コースは決まっている。まずは巨乳コーナー、次いでコスプレ、一旦企画ものを挟んで熟女、最後に中古コーナーを散策し帰路につく。今日も同じコースを巡るつもりであったが、巨乳コーナーの棚に向かうと、先客がいた。しかし、正男の心には波風一つたたない。彼は、先客がDVDのパッケージに向ける敬虔な眼差しを認め、慈愛に満ちたふくよかな微笑を湛えた。
(ごゆるりと閲覧なされるがいい、同士よ)
 予定外の棚を見て時間を潰すことにした。
『一人一棚(ワンマンワンシェラフ)の原則』
 それはここ〈シャンバラ〉の博愛精神から生まれた自然法である。同じ棚を隣合わせて見るなどという、無粋極まりない行為は、ここでは厳しく戒められている。しかしその法は、〈シャンバラ〉の住人を外から支配するものではない。それは、彼ら一人一人の心の裡から生まれ、彼らの規範を形づくる、言わば神の法なのである。
 しかし、もしあそこに正男が探し求めていた作品があり、彼が手にしてしまったら? 誰の頭にもよぎる考えであろう。正男とて、ここが夜のスーパーの半額総菜コーナーであれば、欲望を向きだしにして求める商品に手を伸ばしたはずだ。しかし、ここではどういうわけか、邪悪な心は一向に湧いてこないのである。
 正男はたいして興味のないOLコーナーのDVDを物色しながら、〈シャンバラ〉全体の気を探った。同士はあの入り口にいた者と巨乳コーナーの先客、それに……あと恐らく二人。混雑するでもなく、閑古鳥が鳴いているわけでもない、ちょうどいい案配である。
(しかし、それにしても長い)
 正男の心もさすがに乱れてきた。もしかして、巨乳コーナーにいるあの男は新参者だろうか? 〈シャンバラ〉の住人であれば俺の気は既に感じているはずだが……。あまりいい作戦ではないが、ここは軽く『無言の圧迫(プレツシヤー)』をかけてみようか?
無言の圧迫プレツシヤー』とは、同じ棚ではなく、一つ隣の棚を見るふりをして、相手にプレッシャーを与え、居心地を悪くさせ、退散させる技である。しかし、正男はできるだけこの技を使いたくはなかった。仮に使うとすれば、明らかな〈招かれざる客〉に対してである。彼がそうなのかは、まだ判断がつきかねていた。
 と――
「っつれぃしゃーす」
 エプロンをかけた店員が巨乳コーナーの在庫を確認しはじめた。
(店長か。今日のバイトはまだ……)
 正男の脳裏に、昨日の忌々しい出来事がよみがえった。一瞬、雷光の速さで店長を睨め付ける。
(こいつは、まだ信用ならない。なぜなら、この男は〈シャンバラ〉に魔女ウィツチを……)
 すると、巨乳コーナーに変化がおきた。悠々と棚を眺めていた男はだんだんよそよそしくなり、ほんの数秒で退散してしまった。店長の在庫確認もすぐに終わり、正男はようやく巡礼を開始することができた。
(まさか……)
 俺の気を読んでわざと? いや、いかにここ〈シャンバラ〉の番人とはいえ、さすがにそこまでは……。
 正男はふと浮かんだ疑念を振り払うように、新作DVDに目を凝らした。

また入り口の自動ドアが開いたのを感じ、〈宇宙書房シャンバラ〉の店長米倉は、カウンターから顔だけをそちらに向けて、「っシャッせぇぇえっ」といつものトーンであいさつをしたが、入り口付近の雑多な商品の隙間から見えた二人の客の容貌に、一瞬だけ語尾が詰まってしまった。
(まずい……)
 カップルだ。
 米倉のあいさつか、はたまた茶髪のいかにも軽そうな女の甲高い声にか、常連客たちはすぐさま異変を察し、〈シャンバラ〉の静謐な空気は一気に乱れてしまっていた。
(今夜はまだ誰も商品を買っていない)
 このまま常連に手ぶらで帰られては困る。
〈シャンバラ〉の〝門〟には、一応『カップルでのひやかしのお客様はお断りしています』と注意書きがしてあるのだが、ゆとり教育を受けた若者は行間が読めないのか、魔除けの札程度の効果もなかった。一度やんわりと告げたこともあったが、「いや、冷やかしじゃないっすよ、ローション買いにきたんで、あ、一番ヌルヌルしたやつってどれっすか?」「もうヤだー○○君たら」「お前が言ってたんじゃん」「言ってないしー、てかさっさと帰ろうよー、奥にキモいオヤジとかいるし」などと大声で騒がれたことがあった。無論、常連は何も買わずにすぐに帰っていった。今夜の客はあのときのカップルではなかったが、いずれにせよ〈招かれざる客〉であることに変わりはない。
 万が一にも、入り口付近の古本か何かを物色して帰ってくれないかという米倉の望みをあざ笑うかのように、カップルは含み笑いとヒソヒソ声を立てながら、〈シャンバラ〉の門をくぐってしまった。

――カップルだ!
 正男はインパラが草原のはるか彼方に現れたチーターを一瞬で察知するように、彼らの気を察し、身を硬くした。しかしまだ間合いには近づいてはいない。インパラにプライドがあるように、正男にもまたプライドがあるのだ。
 それにしても、この〈シャンバラ〉の儚(はかな)さはどうだろう? つい先ほどまでの静謐と荘厳な空気は、もうどこか大衆的な下卑たものになり果てている。それは間違いなくあのカップルのヒソヒソ声、押し殺した笑いのせいだ! 気を使っているつもりなのかもしれないが、逆にそれが正男の神経を逆なでした。ここにいる同士たちも同じ感覚を共有しているはずだった。
 正男の裡に怒りがこみ上げてきた。それがこの聖地にふさわしくない感情であることは重々承知していたのだが、抑えようとしても後から後から溢れ出てしまうのである。
 カップルのヒソヒソ声がいよいよ近づいてき、正男は一旦巨乳コーナーから離れ、その裏のSMコーナーで様子を伺うことにした。案の定、カップルは正男が見ている棚を隔てた向こう側に来た。女が巨乳に食いついて、声を殺してはしゃいでいる。ふん、どうせ貧乳のくせに!
 棚の向こうの気配を伺いながら、正男は苦い思い出を反芻していた。
 数ヶ月前のことだった。やはりカップルが〈シャンバラ〉に進入してきたのだが、正男は気配を読み違えて、棚の迷宮の中でカップルと鉢合わせてしまった。そのときの女の眼! 一瞬、まるで怪物にでも出くわしたかのように正男を凝視し、すぐに下を向いて彼氏の腕に掴まり、元来た方向に後ずさって、そのまま店を出て行った。女はこの狭い迷宮で正男とすれ違うのを恐れていた! すれ違いざまにおしりでも触られると思ったのだろうか? 正男は屈辱に震えた。仮に自分が公共の場で卑猥な行為をしていたのなら、あのような眼で見られても仕方あるまい。しかしここは違う! 俗世間を超越した〈シャンバラ〉だ! そして自分は、この聖域のルールを完璧に遵守していた! それなのに、なぜあんな眼で見られなければならないのか! 正男は自分にM属性のないことを憾(うら)んだ。
 またカップルの気配が動いた。正男はせめて顔を見られまいと、体をやや斜めにし、二人が来るであろう方向の逆を向いた。彼らはヒソヒソ声で話しながら正男の近くをすり抜けて、迷宮の奥へと向かった。
(あそこは……)
 各社の企画ものが陳列されているゾーンで、店内でも最も長く棚が伸び、出入り口は両サイドしかない。またしても今夜の巡礼を邪魔されてしまった。しかし、あちらには同士がいるのではないか? 正男は巨乳コーナーには戻らず、ゆっくりと企画ものゾーンへと近づいた。ちょうどカップルがその中に足を踏み入れたようだ。慎重に気を探る。どうやら、一方の出口付近に同士がいて、カップルはどんどんと中央に向かって進んでいるようだった。
(よもや、あれを使うときが来たとは……)
 正男は硬く拳を握りしめた。そして意を決し、確かな足取りで自ら企画ものゾーンへと足を踏み入れ、その身をさらした。
 ――喰らえ! 『多面的圧迫ゾーンプレツシヤー
多面的圧迫ゾーンプレツシヤー』とは、出口が二つしかない棚の両サイドを固め、中にいる者の居心地を悪くさせるという技である。しかし、これは同士との無言の連携が不可欠だ。
 正男はもう一方の出口にいる同士の気を探った。するとすぐ、同士は正男の気を優しく導き、迎え入れ、そして自らの気と共に正男に送り返してきた。二人のフォースが合致した! 正男と同士は、まるで示し合わせたかのように、同じ速度で陳列されているDVDを物色しながら徐々にゾーンを狭めていく。カップルは平静を装っているものの、出口をふさがれたことに明らかにうろたえている。
(効いてるな……)
 効果のほどを確認すると、途端に正男の心に憐憫の情が生まれた。しかし、正男は『多面的圧迫ゾーンプレツシヤー』を解くことはしなかった。〈シャンバラ〉を荒らす者には制裁を下さねばならぬのだ!
 そうした内心の葛藤を気取られないよう、正男は名作の誉れ高い『マジックミラー・カー』シリーズをチェックしながら、さらにじりじりとゾーンを詰めていった。
「あ……あの!」
 声を掛けられて、正男はDVDから目を離し、若者を見る。彼は済まなさそうな眼差しで、
「すいません、ちょっと、出たいんで……」
 と懇願してきた。正男は瞬時に同士の気を確認した。それは正男と同じく、慈愛を讃えていた。
(理解した、同士よ……)
 正男は「失敬」と小声で呟くと、あっけなくゾーンを解除した。
 ――それにしても、何という日だ。今日はついていないのかもしれない。もう帰ろうか……いや、まだ巡礼らしい巡礼もしていない。初心に戻り、もう一度最初の巨乳コーナーから始めるとするか。
 正男は気を落ち着けて、ゆったりとした足取りで最初の巡礼地へと戻っていった。しかし、胸騒ぎは晴れることはなかった。

――おれはまた此処ここに来てしまった。それは誰にも、そう、己自身にも止めることはできない。漆黒の衣にまとわれた己は、この闇と同化する。それは肉体だけではない、心までもだ! 嗚呼、できることならこの己の呪われたさがを闇へと葬りたい。しかし、その闇こそが正に己を此処〈シャンバラ〉へと駆り立てるのだ! 
 黒ずくめの男は、寂れた国道沿いでひときわ光彩を放つ店の扉を開けた。ふと長身のせなに気配を感じたが、臆することなく中へと足を踏み入れた……

(試し読み終了)

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