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【小説】ヤドカリ

こちらは八幡謙介が2013年に発表した短編小説です。



プロローグ

 おおきな大陸の東に浮かぶ細長い島に、ヤドカリは棲んでいる。四方を海に囲まれたその島は、豊かな自然に恵まれ、四季のうつろいは、この島に棲むヤドカリの情操を育成した。一方で、島には災害も多かった。火山の噴火や地震、津波、台風……そうした災害もまた、この島のヤドカリ独特の習性を形づくるのに一役買ってきたと思われる。
 彼らは、幼年期を海の中で、仲間の庇護の元に過ごす。おおきくなってからは、陸での厳しい生活が待っている。彼らは陸で立派に生きていくための殻を、自分自身で探さなければならないのである。

 アオは、名前の通り真っ青な躰をよじって、最近特に窮屈になってきた殻から脱すると、次の波が来ないうちに素早く新しい殻を掴み、念のため中身を調べてから一気に潜り込んだ。
 やった! 成功だ。
 新しい殻はそれはそれで不安もあるけど、それ以上に何か生まれ変わった気持ちがする。新しい殻を手に入れた自分には、これから輝かしい未来が待っているのではないか? 
 そこへ、狙っていたかのようにトゲが現れて、アオは一瞬不快になった。
「やあ、アオ、新しい殻かい」
 トゲトゲのいっぱいついた鋏(はさみ)をこすり合わせながら言う。いつものイヤミを捻っているんだろう。
「うん、トゲみたいに強そうなやつじゃないけど、これはこれで前のよりは〈安定〉していると思ってね」
 アオが言うと、トゲは海藻がひっかかった自慢の鋏(はさみ)を大きく広げて、
「〈安定〉ねえ……。どうしてこうも俺たちは幻想を見てしまうのかね。裸でうろちょろしていた頃や、初めて殻に入ったときには忌み嫌っていた価値観なのにな。海にいるうちは皆こぞってキラキラしたのや、先端の尖った殻を身につけたがる。けどそんなのは最初のうちだけ、陸での生活が目の前に迫ってきた途端〈安定〉さ。まあ、俺もなんだけどね」
 トゲはそう言って触覚をピクピクと奮わせた。
(じゃあ自慢げに分析するなよ!)
 アオはせっかくの新しい門出を台無しにされたようで不愉快極まりなかったが、平静を装って、
「トゲ君の言ってることは分かるよ。でも、陸はせちがらいからね、やっぱり自分の身をちゃんと守ることは大事だと思う。もう子供じゃないし、大人に守って貰うわけにもいかないからね。じゃあ僕はこの殻に慣れるまで散歩してくるよ。またね」
 アオはそう言って踵を返し、慣れない殻を背負っていつもの岩場に戻っていった。


(誰だって分かってるさ、そんなこと……)
 そう思いながら、アオは幼年期の頃を回想していた。
 ようやく鋏もしっかりしてきて、躰も半透明から徐々に青みが増して来た頃、周りの大人たちはアオもそろそろ殻に入る時期だとそやした。アオは純粋に嬉しかった。殻には憧れていたし、仲間や家族の庇護を離れた陸での生活を想像するとわくわくした。それに何より、ようやく自分が自分になれるという感覚があった。自分だけの殻。大人たちのあの、頑丈ではあるが地味でなんの取り柄もないようなのではなく、珍しい形や色の、世界に一つしかない殻! 自分には絶対にそれが見つけられると思っていた。いや、むしろ殻の方から自分を見つけてくれるはずだ!
 アオが初めて入った殻は、まだら模様に小さい突起が沢山ついたものだった。丈夫さや動きやすさよりも、見た目で決めた。アオはもしかしたらこれが唯一の殻なのではないかと夢想した。しかし、大人たちは口々に批判を浴びせた。そんな派手なものはすぐ外敵に見つかってしまう、突起は岩を引っ掻いたり、草が絡まるからよくない、今はまだ子供だから大人も目をかけてくれる、が、大人になれば誰も助けてはくれない、陸を甘く見るな! 気づいたときにはもう遅いんだ……。
 アオは反発し、頑として自分の殻を変えようとはしなかった。そして、同年代の仲間と集っては、鋏や触覚を振り回して大人の悪口を言った。あいつらは負け犬だ、俺たちはあんな風には絶対ならない、だからもっとキラキラして尖った殻を見つけて大人たちを見返してやるんだ! その中の誰一人として陸での生活を知らないことは明白だったが、それは仲間内では禁句だった。
 アオや仲間達は、大人たちから批判を受け、怪訝そうな目で見られるたび、今よりももっと派手な殻を探し、ちょっとぐらい合わなくても無理矢理躰をねじ込み、これみよがしに海を泳ぎまわった。自分たちに怖いものはない、陸でだってきっとやっていける。本気でそう思っていた。
 そんな中、ちょっとした事件が起きた。
 いつものグループにいる、細長くて綺麗な鋏を持ったやつ――ハサミと呼ばれていた――の兄が、実はいつまでも裸のまま岩場に籠もって、もう何年も陸に出ていなかったらしい。アオは驚いた。ハサミの兄といえば、ここいらでも有名で、渦巻き状のお洒落な殻を背負って颯爽と獲物を捕獲したり、外敵から素早く身を隠す様が若いヤドカリの憧れの的だった。大人たちもさすがに彼を認めざるを得なかった。それどころか、何人かは、『君もあんなふうになりなさい』と諭したぐらいだ。そして、そんな兄はハサミの自慢だった。きっと、身近で接している分、誰よりも憧れ、目標にしているのだろう。それが仲間にもひしひしと伝わっていた。ちょっと見ない間に、そんな自慢の兄が落ちぶれていたなんて……。
 アオはいつもの安全な遊び場に向かうと、ハサミが一人で佇んでいるのを見つけ、思い切って訊ねてみた。
「ねえ、その……君のお兄さんのことなんだけど……」
 ハサミはそれだけでもう訊きたいことを察したのか、ひとりでに語りだした。
「兄さんのことだろう? いいよ、もうみんな知ってるから。兄さんは……分からなくなったんだ」
 アオは頭を傾げた。
「分からなく……なった?」
 ハサミは続ける。
「うん――」とハサミは自慢の鋏をだらしなく垂らして、
「君も知っているとおり、兄さんはそれはそれは綺麗な殻に入っていただろう? 実際、あれのおかげで一目置かれていたし、女の子も沢山寄ってきた。その分陸の外敵にも狙われたけど、兄さんはそれさえも楽しんでいたよ……。でも、いつまでも同じ殻でやっていけるわけないだろう? もちろん、そういう場合もあるけど、やっぱり兄さんのでは無理だった。だけど、もう兄さんには他の殻なんて考えられないくらい、あの殻に取り込まれて、もはや殻と自分が一体化していたんだ。そうして、ぼろぼろになるまで同じ殻を背負い続けて、とうとう壊れてしまった。普通なら新しい殻を探せばいいだけの話なんだけど、兄さんには無理だった。兄さんにはあの殻が全てだったんだ……。そして、あの美しい殻がなくなった兄さんには、陸のヤドカリは誰も寄りつかなくなった」
 アオは触覚をピンと張って、
「でも、今からだって!」
「分かってる! きっと、兄さんも……」
 ハサミは漂う藻をうるさそうに払って、
「でも、やっぱり無理なんだよ。一度は上り詰めたからね。そう簡単には変われないよ。兄さんは僕に言った、『お前は俺みたいになるな、お前はちゃんと〈安定〉した殻を見つけて、地味でいいから堅実な暮らしをするんだ』って」
「そんな……」
 アオは絶句した。それは、仲間内で最も忌み嫌っていた考えだったはずだ。
「じゃあ、君はもう……」
 ハサミは小さく頷いた。彼の自慢の鋏が、何だか霞んで見えた。固まっているアオをよそに、ハサミは兄の様子を見てくるとその場を後にした。
 アオは、何かが終わったことをはっきりと実感した。「何が」と訊かれても答えようがないが、確かに、今、何かが終わったのだ。


 アオのグループは自然消滅した。ハサミの兄の件もあったが、むしろ年齢的な要因の方が大きかった。みな躰もしっかりとしてきて、もう海の中の食べ物じゃ足りなくなってきていた。陸が自分を待っていることを、誰もがひしひしと感じていた。いつまでもバカやってる場合じゃない。
 不思議なもので、あれほど憧れた〈唯一の殻〉には、もう興味が湧かなくなった。それと呼応するように、アオの裡に〈安定〉への強烈な欲求が芽生えてきた。すると、あれほど憎み、蔑んだ大人たちの殻が輝いて見えた。くすんだ茶色の殻は砂と保護色になっていて安全性が高いし、丸くて何の個性もない形の殻は、転んでもすぐに起き上がれる、ゴツゴツと不格好な殻は動きにくいものの、外敵があまり食指を動かさないのだろう。それぞれが陸での生活に対応するためのものなんだ! そして、アオにはどれも〈安定〉して見えた。
 アオの〈安定〉への憧れは日増しに強くなっていった。確かに、やんちゃをしていた時期の、何日も獲物が捕れず腹を空かせて過ごしたり、無茶をして殻をボロボロにした日々はいい思い出である。が、あれがこの先ずうっと続くとしたら……考えただけでゾっとする。
 アオは心を入れ替えて、大人たちの話をよく聞くことにした。大人たちは意外にも親切だった。以前はあんなに迷惑をかけたのに……。しかし、彼らの話を聞けば聞くほど、アオは混乱してしまった。説明する者によって〈安定〉の意味が違うのである。ある大人は、昔からあるしっかりとした殻に入れば〈安定〉した生活が送れると言い、またある大人は、時代の変化に乗り遅れないようそのときそのときで適切な殻に変えていくべきだと主張した。どちらが〈安定〉しているのだろう? アオはそれだけを考えた。〈安定〉していればどちらでも構わなかった。というのは、大人になっても殻が見つけられず、まだ一度も陸に出られないヤドカリを沢山見ているからだ。そうして、裸のままぶらぶらと過ごしてきた者や、殻が見つけられないことに悲観して自殺する者もあった。ああはなりたくない! それならば、最初は〈安定〉しない殻でも、とにかく陸に出るだけ出た方がましだ! 
 そうしてアオは、一番まともそうな殻をどうにか見つけ、初めて陸に出ることとなった。


 何千何万のヤドカリたちとすし詰め状態で波に揺られ、ようやくはき出されたその先は、アオが想像していたより何倍も過酷な世界だった。海のように、どこにでも食べ物があったり、大人たちに譲ってもらえることもない。しかしそれよりも、この暑さ! 殻は太陽に焼かれ、足は熱を帯びた砂でどんどんと渇いてくる。それでも食べ物を見つけなければいけない。陸で生きていくとはこんなに辛いことなのか! 
 アオが砂浜を見渡すと、海の中とは比べものにならないほど、多種多様な殻に入ったヤドカリがいた。がっしりとした殻に入った者は、力強く砂浜を進み、森に入ると軽々と木に登ったりしている。一方、ピカピカとした光沢のある、かっちりとした殻に入った者は、一カ所に留まり、いそいそと鋏を動かしている。アオはヤドカリたちを観察した。どの殻が一番〈安定〉しているのか……。
 と、砂浜を奇妙な一段が通り過ぎていった。彼らは一様に、この島周辺では見たこともないような殻に入り、鋏には驚くほど様々な獲物をはさんでいる。放心しているアオに、誰かが話しかけてきた。

(試し読み終了)

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