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ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」レビュー

ラディゲの「肉体の悪魔」を何度目かの再読し、流れで「ドルジェル伯の舞踏会」も再読しようと思い、Amazonで検索してみると新訳が出ていました。

本作は20歳で夭折した天才の遺作であり、あの三島由紀夫が憧れ、真似をしたことでも有名。
ただ、どうやらこれまで発表されてきた「ドルジェル伯の舞踏会」は、ラディゲ亡き後コクトーら雄志が手を入れたものらしく、それ以前のラディゲが書き上げた幻の原稿が20部のみ存在していたそう。
近年それが発掘(?)され、本国フランスでは丁寧な注釈と共に発表されており、新たにその原稿を定本として新訳されたのが本書だそうな。
詳しくは作品あとがき参照。

序盤はやや冗長な家系の説明から入る。
登場人物を完全に忘れていたのでメモを取りながら読み進めていたが、物語1/5ほどでストーリーが転がり出し、そこからはメモが全く必要なくなった。
あれこれ人物は出てくるものの、ほとんどがドルジェル伯、マオ(ドルジェル伯夫人)、フランソワの三角関係に終始するので、キャラに翻弄されることはたぶんないだろう。
そういった意味ではとても読みやすい。
ただ、お話自体ははっきりいって全然面白くなく、何も進まない、何も解決しない、驚愕のラストもどんでん返しもなく、ハッピーエンドなのかバッドエンドなのかすらはっきりしないという、ちょっと川端文学っぽいテイストがあり、純文学に慣れていない人は不満に思いそう。
恐らくそれが、20歳までには一度読んだはずなのに全く覚えていない理由なのだろう。
ある程度純文学の素養が必要な作品といえるだろう。

文体はさすがに新訳らしく、古典の翻訳に見られる堅苦しさ、仰々しさはなくて読みやすかった。
これには背景があるらしく、上記したように元々翻訳されていた作品はラディゲの仲間がかなり手を入れたもので、訳者の渋谷豊氏曰く、作者が意識して狙った「あえて崩したところにあるエレガンス」を「ガチガチのエレガンス」に塗り替えたらしい。
平たく言うと、わざとカジュアルダウンさせたものをフォーマルに直して出版したのがこれまでの「ドルジェル伯の舞踏会」だとか。
それを今回、定本に沿ってオリジナルの”抜け感”を維持したまま再翻訳したのがこの新訳である。
確かに、読んでいて『なんかラディゲっぽくないな』と感じていたが、恐らくその”ラディゲっぽさ”はコクトーらの作り上げたもので、本当のラディゲの文体はこの新訳に近いものなのだろう。
少しだけこの夭折の天才に近づけたようで意義のある読書だった。

本作の主題は、【純粋な魂が無意識のうちに弄する奸計は、はたして悪徳が張り巡らせる策略より奇異でないと言えるか?】。
純粋な魂=ドルジェル伯夫人のマオ。
裕福な家庭の子息であるフランソワは、マオに恋をする。
マオは一昔前の道徳と貞操観念を持っており、その純粋さから道ならぬ恋を退けようとするが、同時にその純粋さ故に自分自身を欺き、フランソワも勘違いさせ、夫のドルジェル伯をも困惑させる。
今でいうと、天然が天然故に沼にはまっていくといった感じか。
そこにある残酷さ、はかなさ、美しさ、人間の面白さをフランス文学伝統の心理描写で浮き彫りにしていくというのが本作の狙いであり、ほぼ全て。
主題から考えるとマルキ・ド・サド「美徳の不幸」の焼き直しかと思えるが、こちらは『美徳は必ず悪徳に負けて不幸になるよ』というお話。
一方本作は、『美徳は悪徳よりも奇なり』と言いたいらしい。
そういった意味でラディゲはフランス文学の伝統をしっかりと踏襲しつつ、それをくるりと裏返すことで一歩先に進めたと言えるだろう。
サドが読んだらひっくり返ったかもしれないと想像すると楽しい。

あれこれ難しそうな作品だが、要は天然のマオちゃんがどれだけ周りを振り回しているのかに注目すればだいたい主題は読み取れる。
ただ、その肝心の心理描写が微細にして緻密なので、気を抜くと作品上重要な箇所を読み飛ばしてしまう恐れがある。
それも事件や行動ではないので、後でページを戻って拾おうにもなかなか見つけにくい……
ラディゲからしたらそうならないよう簡潔さを犠牲にしてでもあえて崩した野暮ったい文体にして分かりやすくしてくれているらしいが、天才の分かりやすいがどれだけ分かりにくいか分かっていないところが若干憎たらしい。

フランス文学らしい心理小説が読みたければスタンダールの「赤と黒」がおすすめ。
こちらはキャラも立ってるし、ストーリーも面白い。
希代のクズ主人公ジュリアン・ソレルも、現代の物語に慣れていれば受け入れられるだろう。

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