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【小説】余命・原始人と火

こちらは八幡謙介が2013年に発表した短編小説です。

「原始人と火」「余命」を試し読み公開しています。


原始人と火


 原始人は、躰に微かな光を感じるや、眼を開け、すぐさま上体を起こした。あちこちをボリボリと掻いて、あくびをひとつ。立ち上がり、外に出て、住居のすぐ横で小便をした。集落はまだ暗く、人気がない。
 また、〈歩くとき〉が来たのだ。もっと辺りがよく見えるようになったら、あちこち歩いて、落ちている実を集めたり、冷たい水の中にいるあのすばしっこいのを獲ったり、獣を皆で襲ったりして、集落に持って帰る。この暑くて痒い時期は、どこに行っても何かしら収穫があった。
 小便を終えても住居に戻らず、地べたに座ってぼんやりしていると、おちこちでも人が出る気配がした。が、原始人はそれに気づかず、遠くからゆっくりと昇ってくる、あの大きくて熱い塊をじっと眺めている。あの塊が昇ると、辺りが見えるようになる。あいつはそのためにいるのだろう。しかし、それだけではないはずだ。あいつが昇ってくるのを見ていると、何かこう、躰(からだ)の中にも同じものが昇ってき、思わず駆け出したくなるような、そんな不思議な感覚を覚えるのである。また、あいつが山の向こうに沈んでいくときには、なんともいえず躰が重くなって、急に目から水が出てきたりすることがあった。そんな彼を、仲間は不思議そうに見やるのだった。仲間は誰ひとりとしてそうはならないらしかった。
 肩を叩かれ、原始人は我にかえった。見上げると、隣に住む男が長い棒を持って立っている。男は顎で前方をしゃくって、無言で歩き出した。
 作者はいま、『無言で』と書いたが、彼らはまだ言葉らしい言葉を持たない。いや、言葉らしい言葉すら必要とされない生活を送っている、といったほうが理解しやすいかもしれない。
 原始人は隣人の後を追った。


 男たちが次々と合流し、十人程度で山に向かった。辺りはもう十分に見えている。仲間には、棒を携えているのが数名、獣の皮でできた袋を携えているのが数名、あとは何も持たない。原始人は、仲間たちと歩きながらふと、この先にあるアレを思い出し、どうなったのだろうかと想像した。アレとは、死んだ仲間である。
 何回か前の〈歩くとき〉であった。先頭の者が叫び声を挙げた。後続が駆け寄ると、仲間が一人斃(たお)れていた。獣を狩るのが得意な男だった。彼がもう死んでいることは、皆すぐに理解した。ふつう、集落では、死者は土深くに埋められる(それは、だいたいあの大きな塊が沈んでいく方向である)。しかし今は〈歩くとき〉であり、〈埋めるとき〉ではない。だから皆は、死体を放ってまた歩きはじめた。
 その日は獣が獲れず、木の実や草ばかりを持ち帰った。帰りにまた同じ場所を通ると、死体は様変わりしていた。躰の真ん中が破れて、そこから赤い水と、獣の中と同じ赤黒いぬらぬらしたものが辺りに飛び散っている。手や足も肉が削げて白い棒が見えている。皆変わり果てた仲間をじっと眺めていた。どうしようもなかった。こうなった仲間は、土に埋めずにその場に打ち遣るのが慣わしである。結局、死体はそのまま放っておかれた。 
 山へ向かうのはあれ以来だったから、原始人は、あの死体が、その後どうなったのか気になっていたのである。少し歩を早めて何人かを追い抜き、目をこらすと、いた! しかし、様子は変わり果てていた。肉がもうほとんどなくなり、全身白い棒がむき出しで、顔もよくわからなくなっている。躰のあちこちには大小様々な虫が無数にたかっている。原始人は、生前の彼が棒を手に、息を潜めて獣に近づく様を思い出して、今足元にあるそれと比べてみたが、両者が同じであるとは到底思えなかった。が、それは同じであるはずだった……。
 原始人は、厭くことなく彼を見続けながら、躰の裡に湧き起こる感情に戸惑った。その感情は、直接的な欲求を持たなかった。駆け出したいわけではない女に乗りたいわけでもない、空腹とも違うし、目から水も出ない……。だから、どうしていいのか分からない。身体の奥が震えて、ただそれに任せた。
 ふと気がつくと、仲間たちが見えない。彼はその感情を打ち捨て、駆けだした。皆が向かった先は、だいたい分かっていた。

(試し読み終了)

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余命


 注文を終え、店員がメニューを持ち去るとすぐ、安美はまたわざとらしい溜息をついて目を細めた。Kは次の句を想像してうんざりしたが、あえて遮ることはせず、汗ばんだ彼女の額をぼんやりと眺めていた。
「ホント、行ってよかったよねー」
(三度目だ――)
 安美の『行ってよかった』は、コンサートが終わってからこれで三度目だった。思ったより反応の薄いKに彼女は興を削がれたのか、
「もぅ、泣いてたくせに~」
 と、得意げな笑顔で冷やかした。Kは改めて彼女の勘違いを確認し、安堵した。そして、
「泣いてないよ、馬鹿! 汗だ、汗」
 と声を荒げ、照れ隠しの体でそっぽを向いた。窓の外を薄着の若者の一団が賑やかに過ぎて行く。
 安美は勝ち誇ったような笑みを真顔に戻して、
「でも……誘ってよかった。Kなら何か感じてくれると思ったの。ほら、ああいうのって変に茶化す人とかいるじゃん? 多分照れの裏返しなんだろうけど」
「ああ、うん……そういう人もいるかもね」
(見透かされている……いや、そんなはずは……)
 Kは遠い瞳をしながら、口元を引き締めた。すると、さっきのコンサートの風景が思い出された。同時に込み上げてくるものを強く抑えつける。安美が次の句を待っているので、あせって、
「ああいうのは、……」
 と、いい加減に口を開いたが、上手く言葉が続かず、
「……めったに観られないよね」
 と、歯切れの悪い語をつないだ。それでも彼女は納得したのか、満足そうに何度か頷いた。運ばれてきた前菜が会話の中断を許した。Kは内心ほっとした。
 Kはミュージシャンである。ギターで食っている。売れてはいないが、生活できるほどの収入はある。本人は特に売れたいとも思っておらず、むしろ世間に顔を知られていない現状の自由を謳歌している。今年で三十五だが未婚で、結婚する意思はない。願わくば、このままの生活が最後まで続けばいいと、半ば本気で思っていた。
 いつの時代にも、こうした輩に進んで関わろうとする奇異な女がいる。安美がそれである。本人の言を借りれば、『アートとかけっこう理解ある』安美は、友人の紹介でKと出会い、すぐにパトロン――といっても現代的な安っぽいそれ――になることを申し出た。安美はKを、あらゆる文化的な催しに連れ出した。コンサート、美術館、博物館、芝居、ダンス……。すべて彼女の奢りであった。Kはなんら悪びれず、別段感謝もせず、夏に出された麦茶の如くさらさらとそれらを呑んだ。彼は正しくミュージシャンであった。
 安美が呆れるほど、Kには未経験のものが多かった。それらに接してKは素直に喜び、時折口にする一語が安美をはっとさせた。そのつど彼女は、『今私はアーティストの感性に餌付けしている!』と、うっとりした。当然これは安美の誤解である。八百屋が大工の仕事を見ても、はっとする一語ぐらいは吐くだろう。
 当のKはというと、こんなパトロンの扱いはお手のものである。この人種は、つまりは承認を渇望しているのだ。彼らが一般人よりもよく観、よく聴けていることを承認するだけで――それはいかにもさらりと言ってのけるべきだ! 彼らは無残なほど有頂天になる。『安美って結構いい耳してるね』の一言は覿面(てきめん)であった。彼女の財布の紐は一段と緩んだ。
 ある夜、ことが終わりピロートークの最中、安美が伺うように切り出した。
「ねえ……行きたいコンサートがあるんだけど、一緒に行かない?」
 Kは奇異に感じた。彼女からの誘いはもっぱらメールだし、コンサートというのも少しめずらしい(安美はいつもKに専門外のもの、見たことがないものを見せたがった)。なぜこのタイミングで、伺うようにコンサートに誘うのかとKは疑った。
「いいけど、どんなの?」
「あのね……余命一年って宣告された女の子がいて、夢が叶って歌手デヴューしたの。で、最初で、多分最後のコンサートをやるって。雑誌で知ったんだけど。当日中継も入るって」
「ふうん、どこ?」
「*町の文化会館、中ホールかな? 詳しい時間はまた調べてメールするね」
 Kはいつも通り承諾した。予定はどうにでもなる。安美は彼の腕の中で、問わず語りに語りはじめた。
「私ね、その歌手のことを知って、考えてみたの。本当の意味で命掛けて芸術に取り組んでいる人っているのかな? って。作品からそれを感じることはよくあるけど――」
 Kはここで噴出しそうになったが、どうにか堪えた。彼女からKの顔は見えない。
「だいたい『命掛けてます』ってのは、それぐらい頑張ってますっていう意味じゃん? でもその子は本当の意味で命を掛けているんだよ……。そういう瞬間に立ち会えることって、多分これを逃したらもうないんじゃないかって。だからKには絶対観てほしいってすぐ思ったの」
「うん、ありがとう。楽しみにしてるよ」
 Kの心に感謝の念が微塵もなかったから、その言葉はまっすぐ安美へと届いた。彼女は安堵したのか、急に口を閉ざした。ほどなく、胸にある安美の頭がずんと重くなり、静かな寝息を立て始めた。Kは思索に耽りだした。それは〈芸術家と芸術〉という、いささかカビ臭い主題のものだった。

(試し読み終了)


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