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華やかなピンクシティの影の面を知る

アルメニア旅行も最終日となり、ジョージアへ戻るバスに乗り込みました。

たった1週間、それも首都エレバンのみの滞在でしたが、観光や人との会話を通して様々な異文化に触れることができました。

この地に降り立つまでアルメニアのことを何ひとつ知らなかったけれど、文化や民族性、その歴史などアルメニア固有の特殊性を学んでいくことで、知的好奇心を満たしつつ、いろんな感情を抱くようになりました。

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元々は紀元前より独自の国家を持っていたアルメニアですが、ロシア帝国やオスマン帝国といった周辺の強国の支配下に留まる期間が長く、ソビエト連邦崩壊を経て1991年に創立したアルメニア共和国はアルメニアの人々にとって悲願の建国でした。

エレバンはロシア帝国の一地方都市だったものの、1917年のロシア革命を経て、アルメニア第一共和国の首都となりました。その後すぐにソ連に組み込まれてからは、アルメニア・ソビエト社会主義共和国の首都となり、引き続き権威を保つことになります。

そして、ソ連主導の下、エレバンは大規模な都市開発を行い、小さな町から100万人を超える近代都市へと変貌を遂げました。そうして、現在にも続くエレバンの都市が出来上がりました。

この時、古い建物の多くを取り壊し、地元原産のピンク色の溶岩を用いたソビエトスタイルの建築物が多く建てられました。

ソ連崩壊からアルメニア共和国建国を経て現在まで続くエレバンの美しい街並みは「ピンクシティ」と呼ばれ、アルメニア国民にとって文化的な中心なだけでなく、憩いの場ともなっています。

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昨日はエレバン西部の丘にある「ツィツェルナカベルト」と呼ばれる記念碑を訪れました。市街地を見下ろせる美しい丘には12枚の岩に囲まれた空間に神聖な火が灯されています。

ここは第一次世界大戦とその前後にオスマン帝国(現在のトルコ)がアルメニア人を大量虐殺したことを踏まえて作られた鎮魂の記念碑です。

当時猛威を奮っていたオスマン帝国は領地内で暮らすアルメニア人を一方的に迫害しました。宗教の対立など様々な理由が背後にあり、結果として数十万人規模のアルメニア人がオスマン帝国の人たちによって虐殺されてしまいました。

現在では近代初のジェノサイドと見なすことも多く、今年になってアメリカのバイデン大統領もトルコに対し、一連の大量虐殺はジェノサイドだったと声明を出しています。

隣接する博物館には、悲劇の歴史を人々の記憶から消さないよう、また一人でも多くの外国の人たちに知ってもらうよう、当時の貴重な資料や写真の数々が展示されています。

アルメニアとトルコは今でも国交を断絶しており、隣接していながら国境を越えることはできません。

今回この痛ましい事実を知り、自分の歴史認識が改まったとともに、胸が痛くなる気持ちを抱きました。

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この1週間エレバンの美しい街並みで過ごし、その華やかさを満喫していましたが、その背後にはつらい歴史を乗り越えて今のアルメニアがあることを知ることになりました。

古来より続く一民族の苦難の歴史を知り、痛みが込み上がります。

こうした光と影の両面を知ることで、本当のアルメニアという国の姿が見えて来る気がします。それは表面だけで満足しない観光のあるべき姿だと思うし、他国から訪れた観光客としての責任でもあると思います。

今一度思いを馳せるとともに、ここで見て聞いて知ったことを忘れずに生きていこうと思いました。


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サムネイルの撮影場所はツィツェルナカベルト

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